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【漫画家】蛭子能収「ヘタウマ漫画の先駆者」

蛭子能収 / Yoshikazu Ebisu

ヘタウマ漫画の先駆者


概要


生年月日 1947年10月21日
出身 長崎県育ち、熊本県牛深生まれ
国籍 日本
職業 漫画家、タレント、俳優
ムーブメント ヘタウマ

蛭子能収(1947年生まれ)は日本の漫画家、タレント。長崎県出身。長崎商業高校卒業後、地元の看板屋に就職。70年に上京し、チリ紙交換やダスキンのセールスマンとして働きつつ、漫画家を目指す。

 

73年、漫画雑誌「ガロ」に『パチンコ』が掲載され漫画家デビュー。80年、33歳で漫画家専業に。ヘタウマな作風が人気を博す呉智英の『現代マンガの全体像』で手塚治虫や大友克洋、楳図かずお、水木しげるらと並んで評価された20人の漫画家の1人

 

80年代後半からはタレントとしても活躍。TV番組に欠かせない存在となる。主な著書に『蛭子能収コレクション』『蛭子の論語』『蛭子能収のゆるゆる人生相談』などがある。

 

2019年春に府中市美術館で開催された「へそまがり日本美術 禅画からヘタウマまで」では、歌川国芳、萬鉄五郎、アンリ・ルソーら歴史的美術家と並んで現代のヘタウマ漫画家の代表として蛭子能収の作品が展示された。

 

蛭子の思想の根底にはギャンブルがある。

 

高校を卒業した日、その足で向かった先が地元のパチンコである。はじめて漫画入選した作品は『パチンコ』である。その後、仕事があるときもないときも、独身の日も家庭をもってからもずっとギャンブルを続けてきた。ギャンブルは蛭子における人生そのものであり、人生の学校そのものである。

 

ギャンブルを通じて、蛭子はその時その時、自分の頭で考え、判断し、選択する力を身に付け現在の状態にあるという。

 

「もし誰かに『お前は負け組だ』と言われたとしても、 

『ああ、いま俺は負けているのか』くらいの軽い気持ちで考えていればいいんじゃないでしょうか。

  

万が一にも、落ち込む必要なんてまったくありません。所詮、勝ち負けなんてものは、そのときだけのもの。今日ツイてるからといって、明日もツイてるとは限らない。 

 

むしろ勝っているときこそ危ないというのは、ギャンブルの定説です。」(蛭子能収)

蛭子能収インタビュー


競艇


蛭子は18歳でパチンコデビューして以来今日まで、競艇、競馬、競輪、麻雀、ルーレット、花札、パチンコなどありとあらゆるギャンブルをしているが、なかでも一番好きなのは競艇である。

蛭子はこれまで全国のほとんどの競艇場に足を運んでいる。また、本栖湖で実際にペアボートに搭乗し、運転をしたこともある。

 

競馬よりも本命確実という選手がこけたり、大穴の選手が来たりして、荒れるレースが多いところが競艇が好きな理由の1つである。

 

いつもヘラヘラしてた顔つきの蛭子の表情が一変するのは競艇のときで、目付きが完全に平常時とちがって釣り上がり「ギャンブラーの目」に変化し、身体からは近寄りがたい殺気めいたオーラを出すという。

略歴


若齢期


蛭子能収は1947年(昭和22年)10月21日に生まれた。団塊世代であり北野たけしと同じ年である。熊本県牛深市(現天草市)で生まれたが、23歳で上京するまで長崎県長崎市で暮らしていたという。

 

小学校を卒業するまでは、長崎市街から南にくだった造船所で知られる地域戸町で育った。蛭子には5歳上の兄と8歳上の姉がいる。ボロボロの4軒続きの長屋の2階に一家5人で住んでいた。間取りは6畳と2畳のニ間だけ。

 

幼少のころから勝負して勝ったら相手から取り上げる"ギャンブル"好きで、よく近所の友だちとお菓子をかけて、自分で考案したトランプ遊びをしていた。

 

また、当時は貸本マンガの時代で借りてきては布団の中で読んでいた。貸本短編誌の『影』の中で山森ススムが描いていたミステリー漫画が大好きだった。

 

父親と中卒の兄は遠洋漁業の漁に出ると1〜2ヶ月ぐらい戻ってこなかったので、家のなかでは母と姉との3人きりだった。姉が中学を卒業すると集団就職で名古屋に行き、ほとんど母親とふたりで過ごすようになった。

 

中学生の頃に、戸町から山沿いの新戸町へ移る。このときに長屋から一戸建てに移り、初めて自分1人の部屋を与えられた。また、兄が競輪で万券を取り六畳一間を増築。このころから、漫画を描きはじめるが趣味程度のもので、本気でなるとはまだ考えてはいなかったという。

 

中学時代に不良からいじめを受ける。今でいう「パシリ」みたいなことをやらされ、パンやタバコを買いに行かされたり、金をせびられ、断ると殴られた。さらに先生からも不良フループの一員と決めつけられ、ビンタをくらう。学校が行くのがいやで自殺しようかと真剣に考えたことや、不良たちが死ねばいいと思ったことがあったという。

 

いじめられた蛭子は、家に帰るといじめを受けた怒りや悔しさをノートにひたすら漫画に描いて気持ちを発散していた。この中学時代のいじめ体験を機に集団生活が苦手になり、群れのなかで濃密で煩わしい人間関係よりも、1人でもいいから自由にいることに価値や喜びを見いだすようになる。

 

中学卒業後、長崎市立商業高校に入学。高校生になると自然と不良グループと縁が切れ、普通の楽しい学生生活をおくるようになる。美術部に入り、グラフィックデザインを学んだ。

 

時代は雑誌のデザイナーやイラストレーターが花形のころで、世間では横尾忠則や粟津潔、宇野亜喜良といったグラフィックデザイナーが注目を集めており、特に蛭子は横尾忠則のようなグラフィックデザイナーになることに憧れていた「おれが横尾忠則のようになるのは無理かもしれないけど、将来はグラフィックデザイナーになってやるぞ」と夢を抱くようになった。

 

といっても、長崎ではグラフィックデザイナーのような仕事はなかったので、少しでも美術に近い職場ということで卒業後は看板屋に就職する。吉田看板屋で労働しているころに、パチンコ、マンガ、映画に熱中するようになる。パチンコ屋には看板屋に勤めていた5年間ほとんど毎日ほとんど通うほど入れ込んだ。

 

またこの頃に漫画同好会を作ってたいた人と出会い、みんなでお金を出し合って漫画誌を購入して回し読みをしていた。このときに月刊漫画誌『ガロ』に出会う。20歳になった年、蛭子は『ガロ』に掲載されていたつげ義春の「ねじ式」を読んで大きな衝撃受ける。このつげ義春の「ねじ式」と出会って以降、蛭子は今の作風のようなシュールな意味のわからない漫画を意図的に描くようになったという。

 

また、「長崎シネマクラブ」という映画同好会にも入り、ここでATG(日本アート・シアター・ギルド)系の非商業的な芸術映画に興味を持つようになる

 

ちなみに、競艇に親しんだのもこの頃である。休日になると近くの大村ボートレース場へひとりで遊びに行った。以来、蛭子の人生にとって今日にいたるまで競艇はなくてはならないものとなった。20歳で競艇デビューしてからこれまでに1億円以上は使っているという。

上京


吉田看板店に勤めて4年が過ぎたころ、仕事に飽きてきたことと、当時映画のシナリオライターになろうと考えていため会社を辞め、大阪で万博が開かれた1970年に上京を決意。

 

長崎の看板屋時代の元同僚が板橋区の成増に住んでいたこともあり、彼の4畳一間のアパートに一ヶ月ほど居候する。当時の全財産は所持金1万、郵便貯金3万だった。

 

シナリオライター学校に通うための金を稼ぐためグラフィックデザインの仕事がないかと探したがそう簡単に見つからなかったが、近くの戸田ボート競艇場には毎日欠かさず通うようになった

 

結局、近所で日雇いの測量バイトの仕事を見つけるたが、この仕事は雨になると中止になるため収入が安定せず辞め、その後、渋谷にあった「むつみ屋」という寮と飯付きの広告代理店に入社。

 

横尾忠則のようなグラフィックデザインの仕事を希望していたが、長崎のときと同じ看板部門に入れられる。看板部門といっても絵を描くのではなく、トラックに看板を積んで取り付けにいく肉体労働ばかりで不満だったという。せっかく長崎時代の嫌な仕事から逃げたのに、東京でもまた同じことの繰り返し。

 

このころに蛭子は「やりたい仕事は、やっぱり大卒じゃないとさせてもらえないんだ」と学歴コンプレックスを抱くようになる。長崎ではまったく意識しなかった学歴というものが、この東京ではモノを言う現実に打ちのめされる。デザイン関係は大卒者ばかりだった。

 

それでも定職ができ、お金にも余裕が出てきたので、本来の目的だった映画のシナリオセンターに通いはじめる。しかし、自身が非社交的な性格が原因で学校や映画の集団制作になじめず、シナリオライターの道を挫折。

蛭子夫人との出会いと結婚


蛭子夫人(鶴田貴美子)との出会いは長崎時代までさかのぼる。当時、蛭子がよく通っていた画材屋に貴美子さんが働いていた。

 

ころのころ蛭子は、漫画よりも芸術系映画に興味が映っていた時期で、とくにATG系作品の映画を見に行ってた。そのときたまたま彼女も見に来ており、その後画材屋に行くたびに映画の話をするようになったのが親密になったきっかけだという。

 

当初、蛭子には恋心がなくただの店員と客という関係だったが、彼女から映画鑑賞のデートに誘われていたという。しかし、蛭子は上京する。

 

その後、長崎の数少ない友人のひとりが画材屋の彼女に「手紙でもだしてやったらどうだ」と話し蛭子の住んでいる寮の住所を教えると、彼女から手紙が届きはじめ文通をはじめるようになる。

 

1年ほどたったころ、彼女も上京しはじめ、国分寺に住んでいたお姉さん夫婦のところに世話になりながら仕事をするようになる。彼女からデートに誘われるが、ギャンブラーの蛭子はデートより競艇やパチンコに行きたかったため、実際に何度か断っていた。

 

ところが、23歳で人並みの性欲があったまだ童貞の蛭子はオナニーだけでは満足できなくなくなり、とにかくやることしかなかったさほど興味がなかった彼女とデートすることにし、突然発情。井の頭公園の動物園とは反対側の森で青姦をはじめる

 

以後、奥さんとのデートの最終目的地は井の頭公園の森が定番になった。ラブホテルを利用したことは一度もないという。その後、1972年10月10日、三鷹台の6畳一間と2畳のキッチンしかない古びた「小島荘」という1万2000円の2階建て木造アパートで同棲するようになった。同棲とほぼ同時期に籍を入れ、正式に結婚したという。

 

夫婦生活がはじまると、それまで押さえつけられた蛭子の性欲が爆発し、毎晩合体していたという。蛭子自身、自分たちの結婚は「性欲結婚」という。たいていこうしたパターンは数年後離婚するが、蛭子夫婦はずっと仲良く暮らし、家庭円満であることだったことに誇りにしているという。

 

ちなみに、蛭子夫人は蛭子のことを「おぬし」というらしい。

漫画家として独立した30代半ばのころ。左は前妻の貴美子。産経ニュースより。
漫画家として独立した30代半ばのころ。左は前妻の貴美子。産経ニュースより。

ちり紙交換時代


結婚してから数カ月後、1年半ほど勤めた渋谷の広告代理店「むつみ屋」を辞める。

 

その後、なるべく高額で日払いの仕事を探した結果、荻窪のちり紙交換屋で働くことになる。当時の日雇いの相場は日給3000円ぐらいだったが、ちり紙交換は日給1万ぐらいで破格の仕事だった。

 

ちり紙交換時代の上司が蛭子に輪をかけたギャンブル好きで、仕事中に頻繁に競艇場へトラックを走らせていたため、蛭子もその上司を見習って、気がつくと仕事中に多摩川競艇や戸田競艇へハンドルを向けレースに夢中になっていたという。

 

しかし、古新聞や雑誌の積み上げと荷卸しは腰への負担が大きく、結局1年半ほどしか続かなかった。

 

ちなみに蛭子はバイトや仕事を「自分の好きな仕事」という視点で選んだことはなく、「給料がいい」あるいは「漫画を描くための条件が整っているか」という2点を優先して仕事を選ぶ合理主義者である。

 

ちり紙交換の仕事を選んだのも給料が良く日払いで、集団行動せず1人ででき、さらに早い時間に仕事が終わったため、漫画を描く時間を確保しやすかったためである。蛭子はちり紙交換をしながらも、きちんと漫画を描いていたのだ。

『ガロ』で漫画家としてデビュー


このころ、蛭子は上京時にあこがれていたシナリオライターやグラフィックデザイナーの夢はあきらめかけており、ちり紙交換の仕事の合間に漫画を描いていた。

 

漫画を描き作品がまとまると、長崎時代に衝撃を受けた「ねじ式」が掲載された『ガロ』編集部に送っていた。『ガロ』では毎月新人作品を募集していたのだった。

 

ある日、青林堂から17枚からなる漫画作品『パチンコ』の入選の知らせが手紙で届く。蛭子能収の記念すべき漫画家デビュー作となり、『パチンコ』は1973年の『ガロ』8月号に掲載された。ちり紙交換時代と当時の貧しい家庭環境の蛭子の鬱屈した暗い熱情が込められた作品である。

 

送られてきた『ガロ』を夫人とともに何度もページをめくり読み、その日の夕方、蛭子夫妻は一緒に銭湯に行った帰り、奮発して100グラム50円の豚肉を50グラム買い、それでカレーを作って2人だけお祝いをした。

蛭子能収『パチンコ』より。
蛭子能収『パチンコ』より。

ダスキン時代と休筆


『ガロ』に入選してほどなくして25歳のときに長女史英が誕生する(※年表では蛭子史英さんは1972年生まれで、『ガロ』初入選の1973年の1年前に生まれているため詳細は不明。なお蛭子一郎さんは1974年生まれなので、『ガロ』入選後に誕生したのは一郎さんのことだと思われる)。

 

蛭子夫人から妊娠を告げられたとき、蛭子は正直いってまだ子どもがほしい時期ではなく、うれしさよりも「どうしよう」「失敗した〜」と思ったという。しかし、せっかく授かった命、堕ろすことはできなかった。

 

ふたりで三鷹市市役所に婚姻届を出し、正式な夫婦にはなったが結婚式は挙げなかった。蛭子も蛭子夫人もそういった儀式とか行事が嫌いだったからだ。

 

しかし、その当時『ガロ』には原稿料がなかったため、その後漫画が掲載されてもギャラは一切払われることはなかったため、漫画で生活することはできなかった。

 

だが、頑張って漫画を描き続けていればなんとかなるんじゃないかという淡い期待と、数カ月分の生活費になる貯金もできはじめていたこと、こどもが生まれ当時住んでいたアパートは子どもお断りだったことなど、あらゆる要素が重なったこともあり環境を思いきって変えることにする。

 

運良く公団の中古住宅の抽選に当選したため、埼玉県の新所沢へ移ることになった。移って見つけた次の仕事が「ダスキン」である。

 

ダスキンを選んだ理由は、各家庭を定期的に訪問してモップを交換するだけで基本的にひとりでクルマで移動できる点が、ちり紙交換と似て性にあっていたためである。

 

仕事をはじめて数年後、正社員として正式に採用され、家族手当やボーナスももらい経済的にかなり安定しはじめた。

 

しかし不思議なことにサラリーマンの生活スタイルに慣れてくると、逆に漫画は描かなくなってしまい、漫画への熱意も冷めはじめる

 

1973年のデビューと同時に漫画活動の方は停滞していき、1976年『ガロ』7月号を最後に休筆する。

蛭子能収『僕はこうして生きてきた』より。
蛭子能収『僕はこうして生きてきた』より。

『JAM』で初めての漫画原稿料


3年後の1979年、ダスキンに勤めて数年がたち年齢的にも漫画家の夢をあきらめはじめサラリーマンが板についてきた当時31歳の蛭子に、突然『ガロ』以外の場所から漫画の原稿依頼が訪れる。

 

依頼をしてきたのは、当時『JAM』というアンダーグラウンドの自動販売機専門のエロ雑誌を制作していた佐内順一郎(ライター名:高杉弾)山崎春美だった。

 

その後、池袋で蛭子は2人と会うことになり、佐内は持参してきた雑誌を蛭子に手渡しながら力強くこういった。「表紙とかエロな感じに見えますが、中は自分たちが好きなものを記事にして作っています。僕たちはゲリラ的な紙面作りを目指しているんです」。

 

ヒッピー風の風貌でホームレスに間違えられておかしくないような怪しい格好の2人で、その雑誌の中身を見ても、とても売れてるとは思えず、原稿料を払ってくれるのか不安だったものの『ガロ』以外から初めての原稿依頼で、しかも連載だったのでうれしく、あえて原稿料はあてにせず引き受ける。

 

ちょうど『ガロ』に描く予定だった作品を『JAM』向けに描くことになった。それから1ヶ月後、信じられないことに本当に原稿料が振り込まれた。原稿料は18ページで約7万ほどだったという。生まれて初めて漫画で稼いだギャラとなった。

 

ダスキンでの給料は12万ほどで給料の半分近くが月一本の作品で稼げるなら、ひょっとすると漫画家だけでやっていけるんじゃないだろうかと、再び漫画熱が蘇ってくる。また、ちょうどサラリーマン生活に飽きてきたころだった。

 

そう感じた蛭子は、思い切って人生のギャンブルに出てサラリーマンとしての安定の捨てプロ漫画家になるチャンスに賭けてみることにした。

 

しかしもともと合理的で打算的な蛭子なので急にダスキンを辞めることはせず「1年後に辞めさせてください」と上司に頼み込む。その後、蛭子は真剣に一年後にダスキンを辞める覚悟をもってプロの漫画家として再スタートを切ることになった。蛭子は佐内順一郎と山崎春美の二人に出会わなかったら漫画家に復帰しなかっただろうと回想している。

 

なお、『JAM』はほどなく廃刊になったが、すぐに佐内たちは後継誌の『HEAVEN』に引き継がれることになった。

『JAM』に書いた連載作品『不確実性の家族』NEWSポストセブンより。
『JAM』に書いた連載作品『不確実性の家族』NEWSポストセブンより。

漫画家として独立、タレントまで


長崎から東京に出てきて10年、1981年に蛭子はサラリーマンとして7年半勤めた「ダスキン」を辞めて漫画家として完全に自立。ダスキンを辞めたときの月給は17〜18万ぐらいだった。同年7月、初単行本である『地獄に堕ちた教師ども』が青林堂から刊行。

 

なお『地獄に堕ちた教師ども』は、1980年に雑誌『JAM」に発表されたもので、さらにその10年前(ガロにデビューする3年前)の70年に、長崎の看板屋に勤めながら、長崎商業高校時代の美術部の友人や看板屋の同僚たちとともに作成した同人誌『MAN』に作品が一度発表されている。

 

1982年に長井勝一の著書『「ガロ」編集長』(筑摩書房)の出版記念パーティーに出席し、特殊漫画家根本敬と出会う。蛭子に初めてであったときの印象は映画『フリークス』に出てくるピンヘッドにそっくりだったという。

 

また、同じ頃に杉作J太郎を当時漫画『カルメン』や『ピラニア』を編集していた出版社EUオフィスで紹介され、杉作J太郎に惚れ、根本に「オレ、何ンか杉作さんて人、好きになりそう・・・・・・」とつぶやき、その後、根本は杉作J太郎に「蛭子さんが杉作さんの事好きだって、いっておいたよ」と伝言すると、蛭子は顔を真っ赤にあからめ「根本さんたらもぉ〜」と言い、女子中学生のように根本の背中をピシャピシャ叩いたという。

その後、原稿依頼がぽつぽつと来るようになり、漫画家として独立した最初の年は年収300万になった。それから毎年少しずつではあるが増えこそすれ減ることはなかったという。

 

プロの漫画家として独立して3年目くらいのころ、子どもも大きくなってきて妻の要望でマイホームを持つことを考えるようになる。といってもまだまだ経済的な不安は消えてなかったので、そう簡単にマイホームに賛成することはできなかった。

 

ところが不思議なことに独立して数年経ったころからテレビの仕事依頼が来るようになる。きっかけは劇団「東京乾電池」の座長の柄本明からポスター画を依頼されたことだった。

 

舞台の背景画の手伝いをしているうちに、芝居の出演依頼まで受け、何度か舞台にあがりはじめた。それをたまたまテレビ局の人が觀ていて面白がって番組に呼びはじめたのが、現在までに至るタレント蛭子能収のはじまりである。

夢のマイホーム購入、右肩上がりの収入


テレビに出はじめたころは、ほんのおまけ程度でただ座っている人みたいな存在で、発言する機会がないこともあった。

 

しかし、蛭子の特異な風貌と自己主張のなさが逆に受けたのか、そのうちにひと月の漫画原稿依頼とテレビの出演依頼の本数が並ぶようになる。テレビのギャラは一所懸命漫画を描いて一ヶ月稼ぐ金額が、テレビ出演1回分だけで稼げたという。

 

本業の漫画以外のテレビの仕事が増えだし、そのうえレギュラー出演まで決まって収入が増えるとマイホームの購入も可能ではないかと考えが変わりはじめ、その後、新所沢からほど近い西所沢・上新井にある築15年、72平米の中古マンションを30年ローンで購入する。家族4人で住むには十分過ぎる広さった。ちょうど蛭子が40歳のときだった。

 

それからもテレビ出演の依頼はどんどん増え、テレビの稼ぎが漫画の原稿料の総額を上回る。演技も素養もないのにテレビドラマに俳優としてもデビュー。さらにどんどんテレビの仕事が忙しくなり、必然的に稼ぎが右肩あがりになる一方だった。

蛭子夫人の欲望の爆発と連戦連勝!


この頃から蛭子夫人に変化があらわれはじめた。地味な暮らしにも愚痴ひとつ言わず満足していたかに見えた蛭子夫人にもどんどん欲が出てきはじめ、ある日「今度は一戸建てが欲しいわね」とつぶやく。

 

新しいマンションを買って5年ぐらいで、さすがにびっくりした蛭子だが、蛭子夫人の肥大する欲望に逆らうことができず、2600万で購入した中古マンションを売る。ここで、ギャンブラー的な蛭子本来の潜在能力を発揮。運良くバブルど真ん中で3200万円で売れ、5年で差し引き600万の利益を稼いだ。

 

 

結局、所沢郊外の久米で売り出されていた中古の一戸建てを7300万円で購入した。購入金額の内訳は、売却した中古マンション3200万円と貯金1000万円、夫人の実家から借りた1000万を支払いにあて、残りは20年ローンを組んだという。

 

蛭子自身は本業はあくまでも「漫画家」という気持ちであり、いくら大金を稼いでもバイト感覚という意識だったという。しかし、バイト感覚だったにもかかわらずその後も収入は順調に増え続け、20年ローンもあっという間に返済。

 

ローンを返済すると、蛭子夫人はさらに新しい家を探しはじめる。蛭子夫人の中に眠っていた「限りない欲」が爆発しはじめ、ブルジョアジーの道まっしぐらだった。

 

蛭子自身はもう充分だった。蛭子の原点は50グラムの肉を買って作ったカレーを食べた、あの三鷹台の「小島荘」だった。その頃のこと忘れてはいけないとしかし、貧しい時代にさまざまなパートで家計を支えてきた妻に反対することできなかった。

 

それから数年後、また蛭子一家は引っ越しをする。今度は新築一軒家。土地と建物合わせて総額1億円を現金でかき集め現金で支払った。当時の蛭子の年収は1億円を超えていたという。

麻雀逮捕と蛭子夫人の死去


1998年11月20日、一億円の新築一軒家を建てた直後、昼間のテレビ収録が終ったあと新宿・歌舞伎町にあった行きつけのフリー雀荘で麻雀をしていると、突然20人ほどの警察が叫びながら突入してくれる。

 

蛭子を含めた客と従業員は横一列に並ばされ現行犯逮捕。護送車で碑文谷警察署に連行され、10時間におよぶ取り調べのあと釈放され、罰金10万を課されることになった。

 

逮捕の10日後、12月2日にマスメディアで大々的に報道され、同日蛭子は記者会見を開き、3ヶ月の謹慎とテレビ出演の自粛を宣言する。予定されていた22本のテレビ出演はすべてキャンセルとなった。

 

さらに、賭け麻雀で逮捕の直後、蛭子夫人は吐血。病名は食道動脈瘤で、ヘモグロビン不足が原因だった。大量の輸血で一時的によくなったもののその後、体調の変化は激しく入退院を繰り返すようになる。その後、子宮筋腫になり1つの病気が次々と形を変え、蛭子夫人の身体を蝕んでいった。

 

謹慎期間中、蛭子は家族サービスも兼ねてラスベガスで合法的なギャンブルをしてリフレッシュに励む。この頃はまだ蛭子夫人の体調もよかったという。

 

4ヶ月後、丸刈りにして芸能復帰会見を行う。謹慎が解けたといっても簡単にテレビの仕事は以前のように戻らず収入は激減する。しかし、漫画の仕事は謹慎の影響はまったくなく、このときほど漫画業界に感謝したことはなかったという。

 

麻雀逮捕の1年後に、蛭子夫人がからだの不調を訴えはじめ、ある日が突然倒れる。腎臓破裂だった。救急車で防衛医大に運ばれ、そのまま入院し、腎臓を片方摘出した。蛭子夫人の腎臓は1つになった。

 

それからというもの、蛭子夫人はまるで病魔にとりつかれたかのようで、元気な女房に戻ることは二度となかった。2001年8月、蛭子夫人が死去。死因は肺高血圧症だった。

再婚と「バス旅」で芸能界での再ブレイク


その後、蛭子は某女性週刊誌の編集者による誌上お見合い企画で応募してきた19歳年下の女性と付き合いはじめ、3年後の2007年、59歳で再婚。外見はハリセンボンの近藤春菜似だという。

 

新しい妻との生活をはじめるにあたり蛭子は新たな家を2000万の現金払いと、5000万のローンで購入し、前妻と暮らしていた家は娘夫婦に譲る。

 

なお、新しい妻は信心深い神道信者のため、休みになると早朝から神社めぐりにつきあわされ、年末年始になると泊りがけで伊勢神宮に参詣するのが恒例になっているという。

 

再婚した2007の秋、テレビ東京のスペシャル番組からの依頼で太川陽介と中島史恵の3人でバスを乗り継いで富山まで3泊4日の旅をする番組「にっぽん列島縦断 ローカルバス乗り継ぎの旅」に出演する。

 

これが12.7%の視聴率を取得し。当初は単発企画だったが一般的な旅番組と一線を画す奇抜な内容で好評だったため、翌年からレギュラー化が決定、それが現在にいたる「ローカル路線バス乗り継ぎの旅」、通称「バス旅」で、蛭子の芸能再起となったきっかけである。

 

バス旅のおかげで、以降テレビの仕事が以前よりも増えはじめるが、なぜ、そこまでテレビ番組に呼ばれるのか蛭子自身がいまだによくわかっていないという。

 

2000年以降のサブカル・アート活動


2009年、根本敬佐川一政とともに海外に向けて売り込む集団「国際特殊機関ハッテンバプロダクション」を結成。

 

「便所の落書き」と評されるヘタウマ系作家たちによるグループで、便所といえば男同士の特殊‐とされる出会いの「場」をときに《ハッテンバ》と呼び、この言葉の響きの持つ引力が生む磁場としてハッテンバ・プロダクションを創設したという。

 

パリ人肉事件の佐川一政と対談した際、「好きな人を食べてはいけない」と佐川に諭したことがある。この時、佐川は蛭子の言葉を受け「小さい頃に蛭子さんみたいな人が友達だったら、僕はこんな事件起こさなかったかもしれない」と述懐している。

 

2011年には故郷、長崎歴史文化博物館で蛭子さんの初回顧展「えびすリアリズム 蛭子さんの展覧会」が開催される。

 

絵を描き始めた長崎商業高等学校時代の作品からこれまで発表した漫画の原画やポスター、それに今回の展覧会に合わせて特別に制作された「ああ長崎」を始めとした大画面の絵や、ギャンブル好きで知られる蛭子ならではの「エビ号」と名づけられたイラストボートなどが展示された。

 

2013年に根本敬との2人展「自由自在(蛭子能収)と臨機応変(根本敬)の勝敗なき勝負」をイベントスペース「@btf」を開催するが諸事情により、根本の作品は両国の別スペースに移動され同スペースには蛭子作品のみ展示された。

 

2017年、北九州市漫画ミュージアムで『シン・えびすリアリズム~蛭子さんの展覧会~』が開催された。

2019年春に府中市美術館で開催された「へそまがり日本美術 禅画からヘタウマまで」では、歌川国芳、萬鉄五郎、アンリ・ルソーら歴史的美術家と並んで現代のヘタウマ漫画家の代表として蛭子能収の作品が展示された。


■参考文献・画像引用

・『ヘタウマな愛』蛭子能収 新潮文庫

・『僕はこうして生きてきた』蛭子能収 コスモの本

・月刊漫画『ガロ』1993年4月号 青林堂

・『因果鉄道の旅』根本敬 KKベストセラーズ


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