【世界の殺人鬼】佐川一政「パリ人肉事件犯を起こした殺人犯」

佐川一政 / Issei Sagawa

パリ人肉事件犯を起こした殺人犯


1981年6月、1人の日本人が世界を戦慄させる事件を起こした。パリ留学中の日本人男性がオランダ人女子大生を殺害して、遺体の一部を食べ、逮捕された。その男の名前は佐川一政。帰国後、根本敬や唐十郎など多くの文化人と関わる。その人生観は神戸連続児童殺傷事件の加害男性「少年A」や世界中の芸術家たちにインスピレーションを与えている。

概要


生年月日 1949年4月26日
国籍 日本
職業 著述家、画家
有名な出来事 パリ人肉事件(1981年6月)
関連人物 根本敬、唐十郎、佐川純

佐川一政(1949年4月26日生まれ)は日本の作家、殺人者、カニバリスト。海外では「Pang」と呼ばれることもある。

 

1981年、フランスのパリ在住時にオランダ人女性留学生ルネ・ハルデルベルトを殺害し、その肉を食べて世界を震撼させた「パリ人肉事件」の犯人として知られている。2年間公判前勾留されたあと、精神鑑定の結果、心身喪失状態での犯行と判断され不起訴処分となる。

 

帰国後は、犯罪行為へ対する大衆の悪趣味的な関心を逆手に利用して、おもに執筆活動などで生計を立てている。佐川を利用しようとする文化人も数多く衝突が絶えなかったが、漫画家で芸術家の根本敬とは特に親交が深い。

 

2000年には、漫画家の根本敬の指導・アシストで、パリ人肉事件を自身で漫画化した漫画『まんがサガワさん』を出版する。この作品はアウトサイダー・アートとして、世界中のシリアル・キラーファンから高い評価を得ており、また絶版のため、現在は古書市場で高価格で取引されている。Amazonでは佐川の著書の多くは取り扱い禁止になっている。

 

近年はパステル画など絵画を制作していることが、『まんがサガワさん』の装丁や彩色を担当したほうとうひろし氏のツイートなどから確認されている。

 

また、ウェブマガジンVOBO企画で2012年2月にオンライン個展「佐川一政の世紀の個展2012」が開催され、絵画はオンライン販売されていた。出品されたのは1984年、東京都立松沢病院に15ヶ月間入院し、晴れて退院した1986年に書かれた油彩画3点。

 

2017年には自身を題材にしたドキュメンター映画カニバ パリ人肉事件38年目の真実』第74回ヴェネツィア国際映画祭オリゾンティ部門審査員特別賞した。

 

2013年に脳梗塞で倒れて歩行が困難となり、実弟、佐川純の介護を受けながら年金暮らしを送る佐川に、フランスの撮影クルーが15年6月から約1カ月間にわたって密着。弟との奇妙な関係性を浮き彫りにしつつ、佐川の心の奥にある「カニバリズム」を追求していく。2019年7月12日より日本でも公開。

重要ポイント


  • 人を殺して食べた
  • セックスが目的ではなく食べることが目的である
  • アウトサイダー・アーティストとしても活躍

略歴


佐川家の祖先


佐川一政は、教養の高い家系の出身である。佐川家の父方の祖父は、朝日新聞社の論説委員であったが、戦前、日本が次第に軍国主義への傾斜を深めていくことを憂慮し、同社を退職した。その後、自ら新聞発行に乗り出すと同時に、何冊かの著書も出版したが、脳髄炎のためわかくして亡くなった。

 

一方、母方の祖父は、貿易会社を経営し、祖母は画家であり彫刻家だった。母方の遠縁似アイルランド人がおり、佐川の体には白色人種の血が流れていることになる。彼自身、このことが白人女性に惹かれる理由かもしれないと語ったことがある。

 

父、佐川明は太平洋戦争終戦時には満州で軍務に就いており妻の登美子と暮らしていた。父親はソ連軍の捕虜となりシベリアに抑留された。この間、母親は女児を出産したが、この子は栄養失調でなくなった。

幼少期


その後、両親は日本に引き上げ、1949年4月26日、兵庫県神戸市で佐川一政が生まれた。一政の出産少し前、母親はデパートの階段を数段踏み外し、危うく流産しかかったことがある。このためか生まれた赤ん坊は非常に小さく、父親の片手のひらにのるほどだったという。

 

赤ん坊はこのほかも出生1年後に腸炎を患って、カリウムとカルシウムの静脈注射によって命を取り留めていた。成長しても相変わらず小さく虚弱で、本人の言葉によると鉛筆のような手足の児童だった(殺人したときでさえ、佐川の体重は35kg、身長は150cmに満たなかった)。

 

後年、都立松沢病院で佐川を診断した金子副委員長(当時)は、イギリス人ジャーナリスト、ピーター・マクギルの質問に答えて、フランス側の医師は出生時の腸炎を脳炎と取り違え、佐川には殺人の責任を問えないという誤った診断を下したのではないかと語っている。

 

事件との関連で、心理的に最も重要な子ども時代の出来事は、正月に佐川が弟や叔父の満男と一緒に遊んだゲームだった。叔父は人食い巨人を演じ、子どもたちをつかまえて鍋で煮るまねをした。このゲームが佐川の人肉食願望に人知れず火を付けたのである。

 

兄弟はこのゲームが好きだった。小柄で痩せた佐川は、この遊びによって病的なマゾヒズム的興奮を感じたともいう。佐川は人食い巨人の登場する類のおとぎ話を求め、恐怖心と奇妙な興奮の入り混じったぞくぞくとするような快感を覚えたという。

 

兄弟はこのゲームが好きだった。小柄で痩せた佐川は、この遊びによって病的なマゾヒズム的興奮を感じたともいう。佐川は人食い巨人の登場する類のおとぎ話を求め、恐怖心と奇妙な興奮の入り混じったぞくぞくとするような快感を覚えたという。

 

昭和31年、6歳のときに父親が東京へ赴任することに伴い一家は鎌倉へ移る。家族で鎌倉の社宅へ移住することとなった。

 

身体の弱かった佐川は、小学校入学を1年遅らせて、弟の純と同じ学年で聖ミカエル学園へ入学。しかし、小学生時代の佐川は、精神的にも肉体的にも活発な子であり、自分の体の小さい事を気にもしていなかった。クリスチャンだったため、毎朝の朝礼と週1の礼拝では賛美歌を歌っていた。12歳で中学校に入学すると、彼は知的、情動的目覚めを経験することになる。

 

神奈川県立鎌倉高等学校を経て和光大学人文学部文学科へ入学。このころ佐川は『戦争と平和』『嵐が丘』『若草物語』などを読む、読書好きの少年で、ベートーベンやヘンデルの音楽を好んで聴いた。彼が内向的で孤独、さらには問題を起こしがち少年に転じたのはこのころのことである。身体の小ささを揶揄する周囲の大人たちの反発心から、文学や語学などの能力を身につけようと努力したのだった。

 

彼にとっての理想の女性像は、フランス印象派の画家オーギュスト・ルノワールが描いたような女性で、1883年の作品『都会の踊り』のモデルがその代表だった。欧米の映画女優にも目を向けるようになった。映画女優のグレース・ケリーのような、白い魅力的な肩が佐川の食べたいという願望を掻き立てた。佐川の空想には白い肩というのが欠かせない要素となった。

 

同時に佐川は情操面でも混乱をきたしはじめていた。その一方で彼はシェイクスピア後期の戯曲、『テンペスト』に特別な意味を見出していた。この戯曲は、登場人物のカリバンの荒々しい性格とミランダへの欲望で知られるが、前半に連なる悲劇に続く、調和と融和の雰囲気に、彼は自分自身を重ね合わせた。

 

大学在学中の論文テーマと修士課程の研究テーマに、彼はこの作品を選んでいる。なお、佐川がフランス語で著した論文は、教授連から高い評価を受け、逮捕されたときには出版される直前だった。

オーギュスト・ルノワール《都会の踊り》1883年
オーギュスト・ルノワール《都会の踊り》1883年
グレース・ケリー
グレース・ケリー

ドイツ人女性宅に侵入


日本には佐川の欲望を満たしてくれる欧米女性は、そう多くない。英文学を学んでいた和光大学の3年生のとき、彼の強迫観念は近所に住む35歳のドイツ人女性に向けられた。彼女は、佐川の祖母が住む団地に住んでいた。

 

ある晩、佐川は開いていた窓から彼女の部屋へ忍び込んだ。裸に近い格好でベッドに寝ている姿を見ながら、彼女を殴りつけて気絶させ、肉体にかじりつく自分を想像した。しかし、彼女の体にうっかり触れたため、目を覚まして大声を上げられてしまった。

 

佐川は逮捕されたが、女性は佐川の父親の示した示談金を受け取り、訴えを取り下げた。だが、このとき佐川は、侵入の目的が性的暴行ではなくて、女性を食べたかったからだとは言わなかった。それは口にするのも恥ずかしいことだと思えたのである。

パリへ留学


和光大学卒業後、まだ勉強がし足りないということで関西学院大学大学院へ歌謡。1976年、関西学院大学大学院文学研究科英文学専攻修士課程修了。

 

シェイクスピア文学の研究で修士号を取得した佐川は、1977年にパリに入学。28歳のときである。このとき佐川は、いきなり大勢の美しい欧米女性に取り囲まれることになった。

 

パリの女性たちは日本の女性と異なり、腕や肩を露出させていたし、どこのカフェを覗いても、胸の大きく開いたドレスや、短いスカートで足を組んだ女性を目にすることができたのである。人の肉を食べたいという白昼夢が、実現させるための企てに転じたのはこのときであった

 

ある日、佐川はロンシャン街の自室に美しいブロンドの売春婦を連れ込んだ。女がビデを使うためにバスルームに入ったとき、佐川はナイフを手に後を追ったが、どうしても手を下すことができなかった。その代わりに佐川は女と普通のセックスをし、セックスが一時的に食人願望を紛らわせくれることを知った。

 

だが空想はすぐに再び頭をもたげてきた。そして佐川は今度は銃を手に入れるのは意外簡単だとわかった。佐川は小口径の狩猟用ライフル(22口径カービン)を無許可で購入することができた。

 

佐川は再び売春婦を部屋に呼んだ。だが今度も、空想を実行に移すことはできなかった。佐川はまだ高校生ぐらいにしか見えないこの女と、話に興じた。その後もこの女は何度も佐川の部屋にやってきては、食事を作ったりした。

 

佐川は女に、食人に興味を持っていることも話し、彼女はそれに関する本をプレゼントしている。ただし、佐川と出会ったほかのすべての人間同様、この女も佐川が本当に人間の肉を食べたいと思っているとは、一瞬たりとも考えたことはなかった。

選ばれた犠牲者ルネ・ハルテベルト


1980年10月、佐川は一時的に日本に帰国。翌年2月、博士論文着手のため再びパリに戻り、川端康成とシュルレアリスムに関する博士論文に着手する。このころ佐川は、すでに自らの妄想を実現するべく行動に出なければと決意していた。

 

日本に戻ってしまえば、もう大勢の欧米女性に出会うチャンスはない。死ぬまでに一度でいいから女性の肉を食べてみたい。それが実現できなければ、これまでの人生は無意味であるとさえ佐川は思っていた。

 

そして1981年5月、佐川は25歳のオランダ人留学生ルネ・ハルテベルトと出会い、その優しい笑顔や魅力的な肉体の虜になった。灰色の瞳に透き通るような肌で、目鼻立ちの整った優しい笑顔の美しいオランダ人女性だった。

 

佐川が彼女とはじめて出会い、くびったけになったのは、彼女が教室でダダイズムに関する論文を朗読しているときであった。ルネはフランス語、英語、ドイツ語が堪能だった。

 

帰りの地下鉄で佐川はハルテベルトとはルネと偶然であった。2人は互いのドクターコースの論文について語り合った。佐川の論文のテーマは「川端康成とヨーロッパ20世紀前衛芸術運動の比較研究」であった。

 

その次の講義の後、佐川とルネは、ほかの学生たちと一緒にギリシア料理屋へでかけた。このとき学生の1人が、次は日本食にしようと言い出し、佐川はその場で自分のアパートですき焼きを作ろうと提案した。しかし、佐川のアパートにやってきたのはハルベルトただ1人だった。2人の会話は和やかに進み、音楽の話になった。佐川はルネに、自分の好きなベートーベンやヘンデルの曲を聞かせている。

 

ルネが帰ったあと、佐川は長い間夢に描いてきた倒錯的な性的幻想が抑えようもなく高まってくるのを感じていた。

 

だが何よりも佐川を夢中にしたのはハルテベルトの白い肩だった。佐川の暗黒の幻想を呼び覚ます力を、彼女が備えていたと言ってもよいだろう。佐川は、すぐに決心をした。食べるならこの女がいい・・・・・・。

ルネ・ハルベルト。
ルネ・ハルベルト。

ホームクッキング


数日後、ルネは佐川の依頼により、ドイツ表現主義の詩集を録音するために佐川のアパートにやってきた。だが、計画を実行に移すことはできなかった。もしやらなければ、無力な夢想家として一生を送ることになるのかと、後悔した。

 

しかし、このとき、佐川の決心をより強固にする出来事が起こった。日本の父親が経営する会社の社員が、日本食を手土産に訪れた。その日本人と佐川は夜に日本料理店に行く。冷蔵庫ケースに並ぶ生の魚を見て、佐川はもう一度白人女性の肉を食らう夢を見た

 

翌日、ルネは再び佐川の誘いに応じてアパートにやってきた。彼女が戸棚に背を向けて座り、詩を朗読していたとき、佐川は戸棚のカーテンを引いてカービン銃を取り出した。彼女の首の後ろに狙いを定めると、引き金を引いた。だがカービン銃は何らかの理由で不発に終わり、ルネは撃鉄の落ちる音も気づきもしないで朗読を続けていた。

 

3度目の機会は、1981年6月11日木曜日に訪れた。このときも佐川はとルネは互いに向かい合い、床のクッションに座っていた。彼女がドイツ表現主義の詩人ベッヒャーの詩を朗読しようとしたとき、佐川はテープレコーダーのスイッチを入れた。そして静かにカービン銃を戸棚から取り出し、彼女の首筋に狙いをつけ、引き金を引いた。ルネは即死した。そして、佐川も失神した。

 

意識を取り戻すと、ルネの死体が血の海の中に倒れていた。佐川は綿密に考えていたシナリオ通りに行動した。まず、ルネの衣服を脱がせ、死体をカーペットの上にうつぶせに横たえた。そして、かがみこんで、右の臀部を噛んだのである。

 

当然だが、人肉をそのまま歯で噛み切ることはできない。佐川はカービング・ナイフを取り出して、肉を切り取ろうとした。まず分厚い脂肪の層が現れた。「トウモロコシのような黄色をしていた」と佐川は表現している。脂肪の層の下から赤い肉を切り取って、一塊をそのまま口にいれた。それはマグロの刺し身のように柔らかかったという。

 

佐川は、今や最後の夢が叶い、エクスタシーの頂点に達していた。ルネの死体を仰向けに転がし、大腿部の肉を切り取り、再び生の人肉を食べた。そして死体を犯した。佐川によればセックスはその場の思いつきにすぎず、人肉を食べることに比べれば、まったく取るに足らないことだったと説明している。

 

死体から流れ出る血がカーペットを汚しそうになってきたので、佐川は死体をバスルームに引きずっていき、死体の解体作業に着手した。これから先は佐川の食人願望とは何の関係もない。ただ単に運びやすくするために小さく切断するという、死体の隠蔽だけが目的の仕事だった。そして佐川は切り取った大腿部と臀部の肉を冷蔵庫に保管した。ここまでが、事件当日の行動である。

 

犯行後の2日間、6月12日の金曜日と6月13日の土曜日を、佐川は切り取った肉を料理したり食べたりして過ごした。外出して友人と会ったり、映画を見たりし、外から変えると、また肉を取り出して料理をした。

 

佐川によれば人肉はそのままでは「仔牛肉にちょっと似ている」ものの、固くて味がしないので、塩と胡椒とマスタードで味付けをした。これを食べていると再び強い性的興奮が高まっていると佐川は語っている。

 

この間、佐川はルネの衣服をシャンゼリゼ通り沿いのごみ箱に捨てている。ただし、パンティーだけは残しておいた。

「まんがサガワさん」より。
「まんがサガワさん」より。
「まんがサガワさん」より。
「まんがサガワさん」より。
「まんがサガワさん」より。
「まんがサガワさん」より。

逮捕


6月13日、土曜日の夜、佐川は犯行の翌日購入した2個のスーツケースに死体を詰め、電話でタクシーを呼んでドライバーにブーローニュの森に行くよう指示した。

 

ブーローニュの森は、ロンドンのハイドパークをモデルに造られた、池や木陰の小径にスポーツ施設などを組み合わせたパリ市内随一の公園地域である。その昔、このあたりは盗賊の根拠だったことが知られるが、今日でも、夜になると辻強盗や売春婦が出没する物騒な一帯である。

 

佐川はブーローニュの森の池に遺体を詰め込んだスーツケースを投げ捨てようとしていた。しかし、スーツケースを池に投げ込もうとしていると分かっているのを見た中年カップルが佐川に目を向けた。佐川は自分が目撃されていることに気づき、近くの茂みにスーツケースを投げ入れ、逃走してしまう。

 

不審におもったカップルは好奇心にかられ、中身を確かめようとスーツケースに近づいた。半開きになったスーツケースから、血まみれの腕がのぞいているのに気づき、2人はすぐさま近くの公衆電話に駆け寄り、警察に通報した。

 

2個のスーツケースの中身は、1つが四股を失った若い女性の胴体で、もう1つには同じ女性の手足と頭部が入っていた。検視の結果、臀部と太腿部から肉がえぐりとられていること、強姦されていること、至近距離から首筋に打ち込まれたライフル弾が死因だったことが判明した。

 

マスコミによって「ブーローニュの森の切り裂き魔」と名付けられた男の逮捕は予想外に簡単だった。警察はまずパリ中のタクシー会社を徹底的に聞き込み操作をし、まもなくスーツケース2個を持った東洋人をブーローニュの森に運んだドライバーを割り出した。ドライバーは配車された住所を覚えていた。エルランジェ街10番地だった。そこの2階のスタジオ(ワンルーム)を、佐川が借りていたのだ。

 

6月15日月曜日の夜、佐川は逮捕された。

佐川がルネの切断死体を運ぶのに使用した、ラゲージカートと2個のスーツケース。フランスのパリ市警察本部で公開された写真である。
佐川がルネの切断死体を運ぶのに使用した、ラゲージカートと2個のスーツケース。フランスのパリ市警察本部で公開された写真である。

拘置所時代と日本でも無断出版騒動


佐川の父、水処理技術で知られる栗田工業の経営者の佐川明は、パリに飛んでラ・サンテ拘置所に収監されている息子を訪問した。佐川明は、フランスで最も優秀といわれ、最も費用のかかる弁護士フィリップ・ルメールに息子の弁護を依頼した。

 

一方、佐川はラ・サンテ拘置所で、事件の全容と、自分をここまでいたらしめた奇怪な空想の日々を詳しく記す作業を始める。幸か不幸か佐川自身の心の中では、人間の肉を食べることは動物の肉を食べることと同等で、行為としてはそれ以上でも以下でもなかった。

 

拘置所にいたある日のこと、同房の囚人の1人がアフリカで起きた人肉食事件の記事を見せどう思うか尋ねた。佐川はちょうどいたエチオピア囚人に「アフリカでは本当に儀式として人を食べるのか」と尋ねたところ、その黒人は「とんでもない!好きで食べるのさ」と応じた。

 

佐川は、この反応から人肉食はビーフステーキを食べるのと同じくらい「ノーマル」なことだという考えを、あらためて確認したようである。

 

また、ラ・サンテ拘置所にいたころ、日本で事件の映画化を唐十郎に相談した大手映画会社があるというニュース記事を聞いた佐川は、唐十郎に自己紹介の手紙を送っている。思いもかけない手紙に唐は喜び、返事を書いた。その後、何度かやり取りしていたものの突然音信不通となる。3ヶ月後、唐の書いた小説『佐川君からの手紙』が日本で発売され、発売わずか数週間で32万部を売り上げるベストセラーとなり、1982年度下期の芥川賞を受賞した。

 

『佐川君からの手紙』のベストセラーで、佐川は、日本の大衆がいまだに自分の事件に強い好奇心があることを知る。そして「正常な人間」がそこまで興味を示すのであれば、自分と彼らとの間のギャップは、思っていたほど大きくないのではないかとさえ考えた。このことは、佐川自身の出版物によって、あらためて確認されることになる。

 

1983年9月、佐川がラ・サンテ拘置所で綴った記録が、『霧の中』という題名で話の特集より刊行され、ベストセラーになった。『霧の中』の出版をめぐっても、佐川と出版社との間では、意見の食い違いがある。佐川によると、『霧の中』は佐川の許可を得ず出版されたものだという。

 

ラ・サンテ拘置所に入れられたばかりのころ、佐川は、ある評論家の訪問を受けた。佐川は彼に、自分の本を書いているところだと話したところ、後日、原稿を見せてほしいという手紙が届き、佐川は原稿を日本に郵送した。その未完成の原稿が、『霧の中』という題名で、出版社の話の特集から発行された。

 

1983年、判事は佐川は殺人を犯した時点で心神喪失状態にあったとして、無罪を言い渡した。判事は佐川に対し、ビルジェイフの南郊外にあるアンリ・コラン精神病院へ無期限への入院を命じた。

 

佐川の父親は、息子の犯罪に対して躊躇することなく、即座に会社を辞任している。また、佐川の母親は、度重なる精神的重圧の結果、神経症をきたしてしまった。

帰国と平凡な日々


佐川はアンリ・コラン精神病院に14ヶ月間収容されたのち、1984年5月に退院を許され、日本へ帰国した。

 

だが、佐川が自由な身になって帰国した場合、マスコミが大騒ぎすることが目に見えているから、そこで佐川の家族は、同年5月22日に東京都立松沢病院に、佐川の自由意志に基づき入院させる道を選んだ。

 

1985年8月、入院から14ヶ月後に松沢病院から退院。4年間の拘禁生活を終えて家族の元へ買えることができ、佐川は心の安らぎを間いる。父親は、すでに巨額の費用を弁護士や入院費などのために使っていたが、家族は温かく佐川を迎え、協力を惜しまなかった。弟の純はルネの無残な死について一度も口には出そうとしなかった。

 

退院した佐川はしばら普通の生活への復帰を欲していた。佐川は小さなアパートをを借りて引っ越し、名前も変えた。収入を得るため、マイナー雑誌に原稿を寄せた。おもにSM趣味や変態性欲を専門にするものだった。常勤の仕事は何度試みても面接で断られ、ことごとく挫折した。皿洗いの仕事さえ断られた。

 

暇な時間をつぶす為に、佐川は絵を描くようになり、ラ・サンテ拘置所での生活を綴った2冊目の本の執筆にも取りかかった。だが、総じていえば、自由な生活は、実に単調なものだと佐川が悟ったのである。

文化人として活動再開


佐川の人生に変化が生じたのは、1989年に起きた宮崎勤事件である。宮崎が被害者の死体の一部を食べたと発表すると、マスコミは先を争って佐川にコンタクトを取りはじめた。佐川は宮崎の人肉食への衝動が理解できたし、これをうまくマスコミに説明しようと努め、注目を集めた。

 

さらに、1990年にイタリア映画『愛のかたち』が東京で公開されると、佐川は再びマスコミの取材を受けるようになる。作品は明確に佐川の事件に便乗した企画であり、青い瞳のブロンド美人が、ハンサムでミステリアスな東洋人と出会い、男のアパートへ食事に招かれ、男は愛の究極の儀式として生きたまま女を食べ続けるというストーリーである。

 

佐川はこの映画を見た後、インタビューで感想を求められ、あまりの興奮に3回も勃起したと答えたという。

 

次第に佐川は「怪物」扱いされることはなくなり、文化人の仲間入りをしていた。多くの知識人が佐川を弁護するようになった。この時点までは、マスコミは事実の歪曲や、極端な単純化によって佐川を評価してきたが、このころになると、自体は佐川にとって好ましい方向に進みはじめた。

 

曖昧ながら、人肉食を何やら不条理なもの、あるいは驚異的なものと考える動きも出てきた。日本のマスコミたちがしかけようとしていたことは、ルネの死をブラックユーモアとして取り扱うことによって「罪悪感を薄める」ことだった。佐川は、この免罪の代償として、「怪物」から「ピエロ」への変身を強いられたと語っている。

 

また、1990年に発表した佐川の2冊目の著書『サンテ』が、佐川への再評価に一定の役割を果たした。パリのラ・サンテ拘置所での日々を描いた作品である。販売部数は『霧の中』に比べると数分の1に過ぎながったが、佐川の元には多数の女性読者から、感動したという内容の手紙が届いた。

 

佐川は自身のピエロ化に喜びを感じていたことは間違いないようである。フジテレビの佐川急便を風刺するある番組で、佐川はふんどし姿で、この会社のマスコットである飛脚を演じた。

 

また、『アルファベット2/3』というドラマでは、佐川ははじめて台詞のある役を与えられた。ドラマでの佐川の役はある新興宗教の教祖で、彼は欧亜混血の双子の姉妹に秘密の儀式を施すこの役どころが大いに気に入った様子だった。

2000年以降


しかし2001年頃までにはほとんどの仕事が途絶え、生活に困って闇金に手を出すようになる。

 

2005年に佐川の両親が死去。父が1月4日死去し、翌日に母親が自殺したと報じられているが弟は否定している。佐川は当時闇金の取り立てに追われていたため葬儀の出席はしていない。

 

両親が残していた遺産で借金を返済すると、2005年に公団住宅に引っ越す。その後、佐川はしばらくの間生活保護で生活していた。

 

2011年のVice誌とのインタビューで、佐川は殺人者および人食いとして知られている間に生計を立てることを強いられたと言いました。2013年、佐川は脳梗塞にで倒れ入院。歩行困難となり、実弟の介護を受けつつ年金と生活保護で暮らしていることが2015年に報じられた。

1つ下の弟、佐川純氏の自伝『カニバの弟』
1つ下の弟、佐川純氏の自伝『カニバの弟』

美術活動


近作パステル画


佐川一政によるパステル画
佐川一政によるパステル画

1986年に制作した3点の静物画


《夏の想い出》(1986) 縦:74センチ、横:66センチ
《夏の想い出》(1986) 縦:74センチ、横:66センチ
《ゆめの風景》(1986) 縦:52センチ、横:60センチ
《ゆめの風景》(1986) 縦:52センチ、横:60センチ
《リンゴ、花、ミカン》(1986) 縦:52センチ、横:60センチ
《リンゴ、花、ミカン》(1986) 縦:52センチ、横:60センチ

文書


『サンテ』は佐川一政の代表的な著書。パリのラ・サンテ拘置所での日々を描いた作品である。1991年に書かれた『蜃気楼』(河出書房社)は、『霧の中』(話の詩集)の改訂版といった内容で、自分自身の怪奇な空想の奥底を探る試みがなされている。1994年までに佐川は、小説、エッセイなど7冊の著書を出版している。

漫画

「まんがサガワさん」


『まんがサガワさん』は2000年12月31日にオークラ出版から刊行された佐川一政にとる漫画作品。パリ人肉事件の様子を加害者である佐川自身が漫画化。構成・彩色・装丁はエディトリアル・デザイナーのほうとうひろし、また、根本敬がアシスタントとして参加している。

「まんがサガワさん」から。生でかじりついても歯型がつくだけで噛み切るのは難しいという。カニバリストや過激なサディストにしか理解できない感覚だ。

「まんがサガワさん」から。賛美歌を歌いながら切り刻む。処刑動画にイスラム歌謡を合成させ殺害を神聖化するISISや、「雨に唄えば」や「ミッキーマウスソング」を歌いながら暴力的なシーンを映し出すスタンリー・キューブリック的な演出だろう。人は残虐な行為をしているときに、まったく正反対の行動を起こして正当化し、理性を保つといわれている。

鏡に写して「カニバルだ!」と叫んだ僕。どこか文学的だ。

現代美術家への影響


ベルギーの現代美術家リュック・タイマンスに影響を与えており、タイマンスは佐川一政のポートレイトを制作している。この作品はテート・モダンが所蔵している。

 

《Issei Sagawa》は2014年に制作された油彩作品。彼の頭のサイズに似つかわしい大きな帽子を被った佐川一政の肖像画で、頬周辺はどちらも大きな闇の領域が描かれている。全体的に非常に緩やかな筆致で描かれており、全体的には薄暗い灰色に見えるが、グリーン、ピンク、グレイなどの絵具も使われている。

 

タイマンスによれば、自身の携帯電話で撮影した佐川一政のドキュメンタリー映像のシーンを元にして描いたという。

※1:リュック・タイマンス《佐川一政》2014年
※1:リュック・タイマンス《佐川一政》2014年
※2:リュック・タイマンスと佐川一政のポートレイト。
※2:リュック・タイマンスと佐川一政のポートレイト。

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