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【解説】フリークショー「海外の見世物小屋」の歴史

フリークショー / Freak show

海外の見世物小屋


概要


フリークショーとは“自然の畸形(freaks of nature)”と呼ばれる生物学的希少性を呼び物にしたショーのこと。サイドショーとも呼ぶ。日本では見世物小屋に相当するものである。

 

フリークショーで呼びものとなるのは、観客に衝撃を与える標準的な身体を持っている人々である。巨人、小人、両性具有者、奇病の患者、全身にタトゥーを入れた人、また全身にピアスを入れた人、また火を食べたり吹いたり、口に剣を突き刺す奇怪なパフォーマンスを行う人々たちのショーである。

フリークショーやサイドショーに出演した人物


ヒルトン姉妹(結合双生児)
ヒルトン姉妹(結合双生児)
親指トム将軍(小人症)
親指トム将軍(小人症)
コモドア・ナット(小人症)
コモドア・ナット(小人症)
シュリッツ(小頭症)
シュリッツ(小頭症)

ランディアン王子(四股欠損)
ランディアン王子(四股欠損)
ヴィオレッタ(四股欠損)
ヴィオレッタ(四股欠損)
パスカル・ピノン(巨大腫瘍)
パスカル・ピノン(巨大腫瘍)
ジップ&ピップ(小頭症)
ジップ&ピップ(小頭症)

ジョセフィーン・ジョセフ(雌雄同体)
ジョセフィーン・ジョセフ(雌雄同体)

歴史


16世紀半なかばころ、フリークショーはイギリスの大衆娯楽の1つとなった。身体的な畸形をもつ人たちが、一般大衆の興味や娯楽の対象として扱われはじめた。人びとは彼らをひと目見るためにショーに集まった。

 

初期のフリークショーにおける有名人は、イタリアのジェノヴァ生まれのシャム双生児のラザロ&ジョアンネ・バプティスタ・コリドー兄弟が挙げられる。彼らはチャールズ1世の処刑裁判時に開催されたショーに現れ、人気を博した。

 

兄ラザロの方は非常にハンサムで普通の男性だったが、ラザロの身体に寄生して胸にぶらさがっている弟のジョアンネは、口をきくことはできず、目は閉じたまま、口は開きっぱなしの状態だっいう。ショーが終わると、ラザロは不要な注目を集めるのを避けるため外套で弟を隠していたという。(ラザロ&ジョアンネ兄弟の詳細記事はこちら

ラザロ&ジョアンネ・バプティスタ・コリドー兄弟。チャールズ一世にそっくりだった。
ラザロ&ジョアンネ・バプティスタ・コリドー兄弟。チャールズ一世にそっくりだった。

見世物小屋はおもに、居酒屋や遊園地などで開催されて人気を博した。18世紀のイギリスでは、腕がなく、短い足の小人のマティアス・ブヒンガーがマジックショーやミュージカルなどで驚くべき才能を発揮して人気者となった。(マティアス・ブヒンガーの詳細記事はこちら

マジックショーやカリグラフィなど多様な才能をもちあわせ18世紀の小人マティアス・ブヒンガー。
マジックショーやカリグラフィなど多様な才能をもちあわせ18世紀の小人マティアス・ブヒンガー。

フリークショーの黄金時代


19世紀になると、特にイギリスとアメリカでフリークショーは人気を呼び、最終的には商業的な成功を収める娯楽産業のひとつにまで発展した。

 

1840年から1940年までフリークショーの黄金時代で、この時期に多くの肉的的、精神的に欠陥を持つ人たちや奇妙なパフォーマンスを行う人たちがフリークショーに招集されるようになった。多くはサーカスやダイム美術館(ハイブロウと異なるワーキングクラスを対象にしたロウブロウな美術館)や寄席などで開かれた。

 

週末に余暇を得られるようになったアメリカ中産階級の増加によって娯楽産業が発展するとともにフリークショーも並行して発展した。利益優先が行き過ぎて、ショーではフェイクの畸形も多く見られるようになりはじめた。しかし、このフェイクショーは結果として、その後、アメリカ大衆文化の要素(プロレスなど)として受容されるようになった。学者によれば、フェイクを含むフリークショーはアメリカ文化の発展において重要な要素であるという。

未開人や非西欧圏人の展示「人間動物園」の登場


 畸形の人だけでなく、非西洋圏の異民族・異人種たちの生態的な見世物展示「人間動物園」が、1870年代から行われるようになった。アフリカ系の黒人やネイティブ・アメリカンの展示が代表的なものだった。

 

1906年にはニューヨーク市のブロンクス動物園にコンゴのピグミー族の黒人オタ・ベンガが動物と一緒に展示された。こうした展示は当時各地で開催された博覧会でも行われ、好評を博した。

 

1910年の日英博覧会でも、日本文化や伝統工芸の展示と並び、パイワン族、アイヌの展示が行われた。オスロでは1914年、アフリカ系の80人が5カ月間、「コンゴの村」と名付けられた区画に住まわされ、当時のノルウェー人口の3分の2にあたる約140万人が見物に訪れたとされる。

ブロンクス動物園のオタ・ベンガ(1906年)
ブロンクス動物園のオタ・ベンガ(1906年)
1928年にドイツのシュトゥットガルトで行われた人間動物園のポスター
1928年にドイツのシュトゥットガルトで行われた人間動物園のポスター

小頭症の人々は進化途中の人類として


興行主はあらゆる種類のフリークスを展示した。非白人や身体障害のある人々は、よく未知の人種や文化として展示されることがあった。また、これら非白人や障害のある人々は、観客の目を引く未知の人間として宣伝に利用された。

 

頭の先端がとがり、小さな身体で、精神的に遅滞のある小頭症の人々は、 類人猿と人間との中間にあったと仮想される動物「ミッシング・リンク」の特徴であるとみなされ、また絶滅した人種の先祖返り的な標本として扱われた。代表的なミッシング・リンクとしては、映画『フリークス』に登場するシュリッツである。ミッシング・リンクは「ピンヘッド」と呼ばれることもある。

 

体格がよく、身体的にも健康的な小人は高尚な人として扱われた。頭や手足の大きさと胴体と揃わない小人はエキゾチックとされた。

 

四股のない身体障害のない人は、蛇人間やオットセイ人間など“動物人間”として扱われた。

 

20世紀最初の10年間で、フリークショーの人気は低下し始めた。全盛期はフリークショーは催し物会場のメインアトラクションだったが、1940年までに客は興味を失い始めた。

小頭症の人々は「古代文明の生き残り」や「類人猿と人類との中間」という売り文句が付けられた。
小頭症の人々は「古代文明の生き残り」や「類人猿と人類との中間」という売り文句が付けられた。

代表的な興行


バーナムのアメリカ博物館


P・T・バーナムはサーカスを設立したことで知られる最も有名な興行師であり、近代宣伝の父とみなされている。

 

しかしながら、バーナムの見世物で紹介されるフリークスの多くは、フェイクであることはよく知られていた。たとえば、「161歳でジョージ・ワシントンの元乳母」という触れ込みで、黒人女性ジョイス・ヘスを見世物小屋に出演させた。さらに、実はジョイス・ヘスは機械仕掛けの人形で、腹話術師がしゃべっているなどデタラメな噂を意図的に流したりした。

 

バーナムはビジネスの背後にある、このような不適切な倫理観に気づいていたが、「私は一般大衆を欺こうとおもってない。彼らはフェイクであっても喜んで見てくれるだろう」と話している。バーナムは、このような過激な興行宣伝を行い、興行に関する奇妙な逸話を作り上げていった。

 

1841年にバーナムは、ニューヨーク劇場兼博物館の「バーナムのアメリカ博物館」を設立し、そこでデブ女、小人、巨人をはじめ、フリークスとみなされるさまざまな人達を集めて、絶え間ないスケジュールでショーを開催していた。この博物館はアメリカで最も人気がある興行の一つになり、1年間に40万人以上の人々が劇場に訪れた。

 

劇場の正面には、アトラクションを紹介するためのきらびやかなバナーが装飾され、外でバンドが演奏を行った。

 

彼は興行師であり、同時に珍品コレクターとしても知られていた。そうしたこともあって、バーナムの劇場は、ただ人を楽しませるだけでなく、展示物のさまざまな講義なども行っていた。チケット1枚購入すると、講義の受講、見世物ショー、動物園、そのほか生死への好奇心を垣間見れるものを楽しむことができた。

「バーナムのアメリカ博物館」正面。1853年頃。
「バーナムのアメリカ博物館」正面。1853年頃。
内部劇場風景
内部劇場風景

バーナムのショーの中心は、小人症の親指トム将軍(本名:チャールズ・ストラットン)で、彼がショーに出演した当時は4歳だったが、11歳として紹介された。

 

親指トム将軍は生後6ヶ月で成長が止まり、身長は64cm、体重は6.8キロ。厳しいトレーニングと生まれた持った才能で、ショーでトム・サムはヘラクレスやナポレオンなど歴史的英雄の物真似をして人気者になった。トム・サムは5歳でワインを飲み、7歳で公衆の前で煙草を吸っていた。

 

1844から45年の間に、バーナムは親指トム将軍とともにヨーロッパ公演も行い、その際にはヴィクトリア女王とも面会し、彼女を楽しませた。

 

バーナムは親指トム将軍に週給150ドルの給料を支払っていた。親指トム将軍が引退した際、彼はニューヨークで一番尊敬される地区に住み、ヨットを所有し、高価で美しい服を着ていたという。

10歳の頃のトム・サム(1848年)
10歳の頃のトム・サム(1848年)
バーナムとトム・サム(1850年)
バーナムとトム・サム(1850年)

ダイム博物館


見世物を展示する別の方法として「ダイム博物館」という新しい娯楽施設が現れた。ダイム博物館で、見世物として活躍するパフォーマーやフリークスたちは、さまざまな障害を持つ人々の教育目的で展示されることになった。

 

ダイム博物館とは19世紀末のアメリカに現れた娯楽施設である。ワーキングクラス(ロウブロウ)の道徳教育と娯楽を兼ねた施設で、同じ都市でも上流階級の文化(ハイブロウ)とは異なる地区にあった。ニューヨークのような大都会においては、移民たちが多く住んでいた地区において、ダイム博物館は人気の高い安価なエンタテイメント施設だった。

 

ダイム博物館では、安い入場料で観客はジオラマ、パノラマ、絵画、遺物、フリークス、ぬいぐるみ、彫像、蝋燭、劇場パフォーマンスを楽しむことができた。以前はこのような多様なコンテンツが一同に楽しめるエンタテメイント施設は存在しなかった。

 

ダイム博物館は、1870年代に急成長し、1880年代から1890年代にピークを迎え、アメリカ全土のどこでもダイム博物館を見かけるようになった。

 

特にニューヨークは、ドイツのビアガーデン、劇場、ベンダー、写真、スタジオ、その他のさまざまな娯楽施設を含むエンターテイメントを楽しめる地区で、ダイム博物館の首都でもあった。ニューヨークはまた世界中のどの場所よりも多くのダイム博物館があった。

 

1870年から1900年の間、フリークショーはダイム博物館において最も人気の高いアトラクションで、奇人は博物館の娯楽王として存在した。博物館には5種類の人間の奇形が展示されていた。

  • 生まれつきの奇形
  • 小人やピンヘッドのような身体的、または知的障害を伴って生まれてきた人
  • 身体改造者(タトゥーなど)
  • 不気味なパフォーマンスをする異端芸術家(催眠術師、火食い男、蛇使い)
  • 非西洋のフリークス(アフリカ系黒人やジャングルの未開人など)

なお、ほとんどのダイム博物館には座席はなかった。鑑賞者は司会者の役割を担う弁士によって、演壇から演壇へと直接誘導移動させられた。公演中、弁士は「プロフェッサー」とも呼ばれ、さまざまな舞台に登場するフリークスを説明して、鑑賞者の注目を集めた。弁士は大きな声が出せることに加えて、カリスマ性と説得力を必要とした

 

フリークショーにおける弁士の大げさな弁舌は、古典的で聖書的な示唆が詰まったカーニバ・ルベイカーの弁舌を改良したものである。

 

ダイム博物館のフリークショーでは、観客がショーの主題や疑問点を理解するため、医者、心理学者、その他さまざまな専門家からの医学的証明を観客に示すこともあった。

 

しかし、19世紀が終わり、20世紀が始まったころ、ダイム美術館の人気は衰えていく。人気が衰えていく頃には、一般市民にはほかにも、サーカス、ストリート・フェア、国際万博、遊園地、カーニバルなど、さまざまな種類のエンタテイメントが用意されていたためである。

サーカス


サーカスは本来、動物を使った芸や人間の曲芸など複数の演目で構成される見世物である。サーカスの世界において、フリークショー、もしくはサイドショーが演目の一部として不可欠な要素となりはじめた。

 

最も著名なサイドショーは、リングリング・ブラザーズ・アンド・バーナム・アンド・ベイリー・サーカスである。アメリカ社会における実践と寛容のピークの象徴だった。1800年代初頭1人の奇妙な人間が巡業サーカスに参加しはじめた。

 

これらのサーカスでは、19世紀中ごろまではサイドショーのようなものはなかったが、1870年代にほとんどのサーカスでサイドショーが開催され、最終的にはサーカスは奇妙な人間を展示する主要な場所となった。

 

博物館やサイドショーの多くは、1876年頃になると、有名サーカスに追随してパフォーマンスを行なった。1880年までにサイドショーで働く人達は、さまざまなエンタテイメントと組み合わされ拡大していった。1890年までにテントの大きさやサイドショーのアトラクションの数が増えていった。巨大サーカスにはほとんどがサイドショーがあり、12から15の展示物と楽団をともなっていた。

 

バンドは代表的なのはブラック・ミュージシャンやミンストレル・ショー(顔を黒く塗った白人のショー)、ハワイアン・ダンサーだった。これらのバンドは観客を誘致し、テント内にお祭りの雰囲気を出すために用意されたものである。

 

1929年代になるとサーカスは、アミューズメントパーク、映画館、バーレスクツアー、ラジオの普及など、さまざまなエンタテイメントの誕生にともなって減少していった。

フリークショーの衰退要因


フリークショーは19世紀後半から20世紀初頭にかけて、アメリカの標準的な娯楽文化として親しまれてきた。フリークショーは中産階級の人たちの娯楽として価値があるものであり、また興行側もかなりの利益を出していた。

 

しかし、20世紀初頭に生じた身体障害者への姿勢の変化がフリークショーを衰退へと導いた。19世紀以前は、身体障害者は神秘的事象として怖れられてきたが、科学の発展にともない医学的見地から、身体障害者は遺伝的変異や病気として認識されるようになると、フリークスに対する態度は同情の対象へと変化した。

 

こうした理由から、法整備でフリークショーは制限されることになった。たとえば、ミシガン州では、学術目的を除いて、奇形の人間、もしくは醜い人間の展示を禁止する法律が定められている。

 

また、20世紀初頭、映画やTVが一般の人々の娯楽の対象となりはじめたこともフリークショーの衰退へと導いた。人々は自分の家や快適な劇場で、フリークスたち鑑賞するときと同じような体験や行動を鑑賞できるようになった。人々は、もはやお金を払ってまでフリークスを見に行く必要はなくなったのである。

 

フリークショー衰退の背景には、映画やTVの影響が大きいが、もっとも大きな衰退の原因は、やはり障害者に対する人権の向上があるだろう。結局フリークショーは「他人の不幸を蜜にして利益を得た間違った娯楽である」とみなされるようになった。

 

しかしながら、多くの場所でフリークショーは、いまだに人気がある娯楽ジャンルの1つである。たとえば、ケーブルテレビチャンネルの「ザ・ラーニング・チャンネル(TLC)」は、バーナム博物館が過去に利用した手法を踏襲している。同放送局の番組『リトルピープル・ビッグワールド』や『マイ600ポンドライフ』では、奇妙な人間の種を見て、視聴者数を増やしている。

 

こうした現代のフリークショーに対してはかなりの金額が支払われ、1エピソード平均8,000ドルをもたらしている。

 

フリークショーは差別か娯楽産業か?


フリークショーは障害者たちの仕事場である


近代的な障害者施設へ収容するより、フリークショーに出演することで彼らに安定した仕事と収入を保証する大きなメリットがあると提唱する学者もいる。

 

フリークショーはエンタテイメントの場として見なされていたが、それらはまた障害者にとって自身の魅力を見せる広告的な雇用場所でもあった。福祉や労働者の補償がない時代、深刻な障害を持つ人々は、しばしば自分自身をアピールする場として、また生計を立てる機会として、フリークショーは唯一の場所だとわかっていた。

 

また、多くのフリークショーに登場するパフォーマーたちは、運と才能を持ち、生計を立てて、フリークショーを通じて健全な生活が送れており、人気者になれば高給料が得られ、普通のサーカスの曲芸家や新人パフォーマー、俳優よりも遥かに稼いでいたのである。たとえば、ダイム博物館で働くフリークスの給料は、一般的に週25〜500ドルの範囲で、講義室のさまざまなパフォーマーよりはるかに多く稼いでいた。

 

 

フリークショーは、現代のアファマーティブ・アクション計画(弱者集団の不利な現状を、歴史的経緯や社会環境に鑑みた上で是正するための改善措置のこと)よりも、はるかに障害者に独立した生計手段を供給してきたのである。

 

一方で、興行主と経営者だけが利益を得て、障害者たちをただ悪用していたに過ぎないと主調する学者もいる。


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