【見世物】シュリッツ「映画『フリークス』に出演していた小頭症の男」

シュリッツ / Schlitzie

『フリークス』に出演していた小頭症の男


概要


生年月日 1901年9月10日
死没月日 1971年9月24日
国籍 アメリカ
職業 見世物芸人

シュリッツ(1901年9月10日-1971年9月24日)はアメリカのフリークショーやサイドショーの見世物芸人。

 

本名はおそらくシモン・メッツ、法律上はシュリッツ・サーティス。トッド・ブラウニングの1932年の映画『フリークス』に出演していたことで知られている。

 

彼の本業はアメリカの有名なサーカス団バーナム&ベイリー・サーカスのサイドショーに出演していた見世物芸人で、同サーカス団のアイドル的存在だった。

略歴


幼少期


シュリッツの生年月日、出生地、両親はよくわかってない。死亡診断書や墓石に刻まれた情報によれば、ニューヨークのブロンクスで1901年9月10日に生まれたことになっているが、ニューメキシコ州サンタフェで生まれたという情報源も存在する。

 

ほかに、メキシコのユカタン半島で生まれたという話も見かけるが、これは「アステカ文明の最後の生き残り」という、シュリッツの見世物上の触れ込み・口上で使われた架空の設定から生じた間違いである。

 

シュリッツの出生に関する個人的情報は決して分かっていない。長い生涯のうちに非公式の保護者たちによって、さまざまなカーニバルで引き取られているうちに、正確な個人情報は失われたといっていいだろう。

 

シュリッツは、小頭症による神経発達症の重度知的障害であり、異常に小さな脳と頭蓋骨を持つ低身長(122cm)の男性である。これらの身体的特徴はセケル症候群により生じたとみなされている。

 

知能は3才程度で、自分自身を十分に認識することができず、単音節の言葉といくつかの簡単なフレーズのみ話せたという。

 

しかしながら、彼は簡単な動作の仕事をすることは可能だった。非常に素早く反応し、真似る能力を持ち、彼に話しかけた事の大半は理解していたという。

 

シュリッツの事を知っている人たちは、彼は愛情豊かで社交的であり、踊ったり、歌ったりすることが大好きで、みんなの注目の的で、自主的に人前で演技を止めたり、話したりすることができたと説明している。

「アステカ文明の生き残り」というキャッチで売り出されるシュリッツ。当時37歳。
「アステカ文明の生き残り」というキャッチで売り出されるシュリッツ。当時37歳。

サイドショーのパフォーマーとして活動


サーカスのサイドショーで、小頭症の人たちはいつも"ピンヘッド"もしくは"ミッシング・リンクス"という口上で触れ込みされ、シュリッツは"アステカ文明の生き残り""猿女""何者?"といった口上が使われていた。

 

さまざまなサイドショーで、彼は彼とよく似た小頭症のパフォーマーたちと出演してパフォーマンスをしていた。

 

シュリッツは、いつもムームーというハワイの女性正装ドレスを着ていたため、彼が男性か女性かわかりづらく神秘的な外観で客を魅了した。

 

シュリッツを知っていた人たちの多くは、彼が男性か女性かは分からず、男性代名詞を使う人と女性代名詞を使う人の割合は半々だったという。

 

シュリッツがムームーを着ていたには理由がある。シュリッツは尿失禁癖があり、常におむつをする必要があったため、実用的なドレスを着ていたのだという。

 

サイドショーは、シュリッツが活躍する場としてうってつけだった。

 

1920年代から1930年代にかけて、シュリッツはバーナム&ベイリーをはじめ、クラフト20・ビッグショー、フォーレイ&バルクカーニバルなど、数多くの高所得向けサーカスで引っ張りだこになった。

映画俳優として活動


また、1928年にシュリッツは映画『サイドショー』に出演して映画デビューしている

 

シュリッツが世界中に知られるきっかけになったのは、1932年のトッド・ブラウニングのホラー映画『フリークス』に出演したことだろう。『サイドショー』と同じく映画『フリークス』では、たくさんの本物のサイドショーのパフォーマーたちが出演した。

 

なお、『フリークス』では、シュリッツ以外にも結合双生児のデイジー&ヴァイオレット・ヒルトン姉妹や、"生きた彫像"プリンス・ランディアン、小人症の4人家族ドール・ファミリーなども出演している。

 

シュリッツはウォーレス・フォードと対話する場面で登場する。シュリッツ以外にも2人の"ピンヘッド"が映画に登場する。シュリッツについて言及する際、ほかの俳優は女性名詞を使っている。

1932年に『フリークス』が封切られると、サイドショーのパフォーマーが出演していることで大騒ぎになったイギリスでは30年間、本作を上映禁止にした。映画は商業的には失敗だった。

 

シュリッツはほかにもさまざまな映画に数秒間だけ出演している。1934年のエクスプロイテーション映画『明日の子どもたち』では、強制的に断種された精神的欠陥のある犯罪者の役割で出演している。

 

また、1932年の映画『獣人島』に"毛皮の哺乳類"として数秒間出演している。しかしながら、これらの映画に出演していた小頭症の人がシュリッツかどうかはよくわかっていない。

 

シュリッツが最後に出演した映画は、1941年の『Meet Boston Blackie』である。この映画のサイドショーの場面で「プリンセス・ビビ」という役名で彼は登場している。

一時的に入院


1935年に、トム・ミックス・サーカスでシュリッツは、チンパンジー・トレイナーのジョージ・サーティスとともに訓練を受けるチンパンジー役としてパフォーマンスをしていたが、彼がシュリッツの法律上の保護者となった。

 

ジョージ・サーティスの保護のもと、シュリッツはサーカスのサイドショーでパフォーマンスを長年続けた。1965年にサーティスが亡くなると、ショー・ビジネスマンではなかった彼の娘は、シュリッツをロサンゼルスの病院に預ける。

 

オフシーズンに病院で働いていたソード飲みの見世物芸人ビル・アンクスが、偶然病院でシュリッツを発見するまで、シュリッツは病院に閉じ込められていた。アンクスによれば、シュリッツは長らくカーニバルの世界から離れ公衆の目にさらされないため、とても憂鬱そうに見えたという。

 

病院側はシュリッツの最も良いケアは、アンクスの親方で興行主のサム・アレキサンダーに預けることだと判断し、シュリッツをサイドショーの世界へ戻すことにした。それから1968年までサイドショーで活動した。

晩年


晩年、シュリッツはロサンゼルスに定住し、ときどき、さまざまなサイドショーに出演した。

 

シュリッツは、地元と海外の両方で有名になり、海外ではハワイやロンドンでパフォーマンスをしたこともあった。シュリッツが最後の大舞台は、1968年にロサンゼルス・スポーツアリーナで開催されたドブリス国際サーカスである。

 

ロサンゼルス定住後、シュリッツはハリウッドの路上でパフォーマンスをして注目を集めた。パフォーマンス時に彼の保護者がシュリッツの写真を販売していた。

 

シュリッツは最晩年をサンタモニカのブールバードで過ごした。シュリッツはアルバラード・ストリートにあるマッカーサー・パークやウィルシェア・ブールバードに行くのを好んだ。保護者と一緒に湖を訪れ、ハトやアヒルにエサをあげて、通行人の前でパフォーマンスを行なった。

 

1971年9月24日、70歳でシュリッツはファウンテン・ビュー病院で死去。死亡診断書には1901年の誕生日と「Shlitze Surtees」という法律上の本名が記載されている。遺体はローランド・ハイツにあるクイーン・オブ・ヘブン墓地に埋葬された。

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