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【カルト宗教】麻原彰晃「オウム真理の教祖」

麻原彰晃/Shoko Asahara

オウム真理教の教祖


概要


生年月日 1955年3月2日
死没月日 2018年7月6日
国籍 日本
死因 絞首刑
職業 グル
配偶者 松本知子
子ども 12人
罪状

・殺人

・テロ

麻原彰晃(1955年3月2日-2018年7月6日)は日本のカルト宗教団体オウム真理教の創設者。本名は松本智津夫。

 

仏教・ヨーガの修行に取り組むこと約8年。1986年ヒマラヤにて最終解脱を果たす。その後も厳しい大乗の修行を続けるとともに、多くの弟子を指導し高いステージへと導く。

 

その瞑想ステージは、チベット仏教の成就者から「イェシェ」(最高の智慧を得た段階、完全なる絶対なる神の叡智)のステージであると称えられたのをはじめとして、インド・スリランカ・ブータン等伝統的な仏教国の聖者方に絶賛される。

 

瞑想によって得た神秘力と解脱者の智慧によって、宗教のみならず科学・医学・音楽・文筆・翻訳・教育等においても専門家以上の力を発揮、危機の時代の新たな宗教家として内外から注目を集める。

 

特に予言は特徴的なものであり、ラジオ放送や出版物を通じて公表してきた未来予言が次々に成就。未来を見通す力のただならぬところを知らしめている。

 

また、各国の聖者方との交流を通じて、仏教と平和を守る活動を積極的に展開。92年、タントラ・ヴァジラヤーナを国教とするブータン政府から招待された際には、"最聖"という最高の称号を贈られるなど、その仏教的実践は国際的に高く評価されている。

 

『イニシエーション』『生死を超える』『マハーヤーナ・スートラ』『タターガタ・アビダンマ』等著書多数。

 

1995年に起きた地下鉄サリン事件の首謀者で、ほかのさまざまな事件に関与している。2004年に死刑判決を受ける。2012年5月、オウム真理教のメンバーが新たに逮捕された死刑執行は延期され、最終的に2018年7月6日に絞首刑で死去。

出版物


日出づる国、災い近し



対談


略歴


幼少期


麻原彰晃こと松本智津夫は1955年(昭和30年)3月2日、熊本県八代郡金剛村で生まれた。松本家は非常に貧しく父親は自宅の土間で畳屋をしていた。トタン板を張り合わせた上に藁をかぶせただけのような借家だったという。

 

智津夫は幼いころから自尊心が高く、自分がすでに習得していることを改めて学校で習わされると、露骨にいやがった。ほかの子どもよりも早熟で、特に算数などの能力はずば抜けていた。

 

1961年4月、智津夫は金剛小学校に入学。しかし、智津夫の視力に関して将来を案じた全盲の長兄と両親が、1961年秋に熊本県立盲学校へ無理やり転校させる。

 

盲学校に入学すると国からは就学奨励金が与えられ、貧しい家庭では寄宿舎での食費は免除され、両親も長兄もそれが自身の生活に適用されるのを知っていたためである。智津夫は目の見える自分が盲学校に行くことに納得がいかず、親に捨てられたと恨みつらみをのちによく話している

 

授業中、智津夫は教師の話もろくに聞かず、ノートによく絵を描いていた。小鳥の絵や動物の絵だった。運動会になると智津夫ははりきった。邪魔だと言わんばかりにほかの生徒に平気でぶつかり、怪我をさせたこともあった。いたずら好きで、落とし穴を掘って、全盲の生徒がやってくるのをじっと待った。

 

智津夫を慕う者はだれもいなかった。ただひとり、慕うというよりも親代わりのような立場で彼の上に君臨していたのは、専攻科にいる長兄だった。智津夫は長兄には絶対服従で、言うことはすべて聞いた

 

長兄の気性のはげしさは、智津夫以上だった。目の見えている生徒にも、しゃにむに喧嘩を挑んだ。大言壮語の癖があり、どうやったら金が儲かるかという話をよくしていた。智津夫はこの兄から何度も鉄拳を浴びた。長兄は政治についての不満や批判を智津夫に語って聞かせた。長じては『毛沢東全集』を読めといって読ませた。智津夫は毛沢東を尊敬の対象とするようになっていた

 

盲学校の教師によれば、智津夫は自分のために、まわりを利用しようという意識ばかりがあり、長兄に比べて人の上に立ちたいという名誉欲が人一倍強かったという。

 

小学5年のときに児童会長選挙に立候補した智津夫は、同級生や下級生たちに命じて寄宿舎で配られるおやつのお菓子を自分のために献上させ、集めたお菓子を王様のように生徒に配り選挙票を集めようとしていたという。しかし、選挙には落選すると「先生がみんなに票を入れるなと言うてまわった」と他人のせいにした。

 

中等部二年になると柔道部に入り、水を得た魚のように稽古に没頭する。また、ある日思いついたように「松本智津夫ショーをやるぞ」と寄宿生たちに集合をかけ、歌謡ショーをはじめた。

 

智津夫は中等部のときも生徒会長に立候補したが落選した。むしゃくしゃしたのか、気にくわないと思った生徒を片っ端から屋上によびつけては殴りつけた。高等部でも生徒会長に立候補したが落選。立候補演説のとき、壇上から「私をどうか生徒会長にしてください」と泣いて訴えたという。

 

高等部3年のとき、田中角栄が総理大臣になると、田中の伝記に影響を受ける。医者になろうと高等部三年の三月はじめ、智津夫は熊本大学医学部を受験するが、二日目を休み不合格。

 

大学受験と前後して、柔道の初段を獲得する。盲学校の生徒としてはまれにみる出来事に構内はわきかえった。智津夫も両方の手につくった拳を天に突き上げて、全身でよろこびをあらわした。生まれてはじめて周囲の人びとから拍手を贈られたのは武道だった。

 

その後、盲学校にのこり、専攻科にすすんだ智津夫は鍼灸の免許をとり卒業する。

鍼灸院と漢方薬店


1975年(昭和50年)3月の終わり、智津夫は上京する。最初に住んだはの江東区大島。予備校に行く金もなかったので、人形町にある鍼灸院でアルバイトをしながら、下宿で大学受験の勉強をしていた。5ヶ月の8月には品川区の戸越に引っ越している。ところが、わずか一ヶ月後の9月には、八代の実家に戻る。東京ではわずか半年間しか住まなかった。

 

翌年1976年1月、熊本駅近くの春日二丁目に移り住む。そこで長兄が漢方薬店を出しており、智津夫はこの兄のもとで鍼灸師をしながら助手をつとめていたという。

 

二ヶ月後の3月に長兄のもとを出て、熊本大学のある黒髪町に下宿し、大学堂マッサージ院へアルバイトに通いながら、大学受験の勉強をしていたという。5月には八代の実家へもどり、また長兄のもとで鍼灸やマッサージを手伝う。

 

そこで、従業員を殴り怪我をさせ逮捕されたあと「おれは東京へ行く。東大の法科へ行く。アルバイトしながら予備校に通う」といって、再上京する。

 

1977年、22歳のときに東京・渋谷の代々木ゼミナールに通う。そこで千葉県から通ってくる後に妻となる松本知子(石井知子)と出会う。出会いから半年後の1978年に二人は結婚する。妊娠もしていたので、智津夫はこのときから、大学に行くような話はぴたりとやめ、ふたりは千葉県船橋の湊町二丁目の新しい五階建てのビルの三階を新居にし、ベランダに「松本鍼灸院」という小さな看板を出し、鍼灸治療を始めた。

 

夜の6時か7時ころになると大学生や予備校生のような若者が鍼灸院に集め「世直しの集会」を始める。日本の政治を変えるための講演をしていたという。多いときには30人ほど集まっていた。智津夫によれば、鍼灸師は仮の姿であり、自分は世直しの指令を受け、政治家になろうと考えていたという。

智津夫の政治に対する関心は、国レベルのことばかりではなく、船橋市役所の組織図をはじめ、収入役はどういう人物か、どんな派閥があり、どんな構成で、どんな人物が牛耳っているのかにまでおよんだ

 

9月15日、鍼灸院を閉め、「亜細亜堂」という新しい診療室兼漢方薬局を船橋市本町で開く。たくさんの診療希望者が訪れ、二人の美しい看護婦と、知子が手足となって働いた。

 

智津夫が人々にほどこした治療は、耳のツボに鍼を打ち込んで痩せさせるというもので、それに合わせてこんにゃくやみかん、だいこんの粉末をダイエット食品として売った。松本鍼灸院のときの初診料は2000円だったが、亜細亜堂になってからコースメニュー方式をとり、一週間、半月、一ヶ月、三ヶ月と4つのコースをつくり、ダイエット食品の販売とあわせてまとまった治療費を効率よく得る方法に変えた。

 

1980年7月、知り合いの医師から処方箋を手に入れておこなった保険料の不正請求が発覚し、670万円の返還を求められ、亜細亜堂を閉鎖する。

スピリチュアルへの傾倒


この頃から、智津夫はスピリチュアルなものに対しての関心を深めていく。長兄の影響もあった。長兄は智津夫に創価学会関係の書物や、阿含宗関係の書物を読むようにすすめた。また、「気学」「四柱推命」「奇門遁甲」といった中国に伝わる運命学を独学で学び始めた。

 

その後、「仙道」の修行に明け暮れたことが、運命を決定づける。気を体内に循環させ、尾骶骨に眠っている霊的センターを解放し、そこから一気にエネルギーを頭頂へと突き抜けさせる「大周天」という術を身につける。

 

のちに「大周天」は、オウム真理教の修行の基本とされる「クンダリニーの覚醒」と似たものだが、「大周天」を体得したとき、智津夫は超能力を得るようになったと述べている。その超能力とは「幽体離脱」「手当療法」「霊障を見ること」「他心通」の4つだという。

 

それから智津夫は、宗教に向かった。はじめは仏教やキリスト教をとりいれたGLAの創始者、高橋信次の著作を読んでいた。中村元の『原始仏典』という増谷文雄の『原初経典・阿含経』を読み始めたのは、それからである。

 

智津夫は1980年8月25日、25歳のときに、釈迦が唯一弟子たちに語った仏典とされる阿含経の教えを中心とする阿含宗に入信する。超能力の開発とハルマゲドンからの回避を説き、『密教 超能力の秘密』やノストラダムスの予言にもとづいて書かれた『1999年カルマと霊障からの脱出』など阿含宗管長の桐山靖雄の著作にふれたことが、のちにオウム真理教の教義に大きく影響を及ぼした。

 

その後、薬事法で逮捕されたあと、智津夫は『ヨーガ・スートラ』という古典的なヨーガの教えを説いた書物に出会い、修行に没頭する。

 

薬事法違反で逮捕


翌1981年2月、「BMA薬局」を船橋市高根台に開く。BMAとはブッダ・メシア・アソシエーションの意味だという。派手な広告を地元のタウン情報紙の一面に連続して四、五回打った。

 

開業当初からダイエットを夢見る女性客たちがおもしろいように集まってきていて、亜細亜堂のときと同じく、だいこんやこんにゃく、みかんの皮などの粉末をダイエット食品として売り、それを応用した「ビューティー」という痩せ薬までつくり、通信販売にも乗り出していた。

 

京王プラザホテルの会議室を借りて、出張販売を始めた。薬は飛ぶように売れた。こうして智津夫は何度か出張販売をかさねてゆき、およそ千人の客に薬を買わせ、4000万の収益をあげたが、明らかに薬事法に違反していたので1982年6月に逮捕される。結局、二十日間の勾留で、20万円の罰金を払うだけで許された。

麻原彰晃の誕生


逮捕から5ヶ月過ぎた1982年の11月、智津夫は自念信行会の幹部候補生募集のチラシを見て経営者の西山毅夫を訪ねているが、不採用に終わる。

 

船橋から渋谷へ移り、1983年夏に「鳳凰慶林館」という学習塾を作る。実際は宗教団体の設立で、その指導内容は「サイコロジー(心理学)・カイロプラクティック理論・東洋医学理論・ヨーガ理論・仙道理論・漢方理論を応用した食事療法」というものである。九月生募集のチラシを出すが、このチラシのなかで、はじめて自分の名前を「麻原彰晃」として掲げた

 

しかし、「鳳凰慶林館」はすぐに終わりを告げ、翌年の1984年2月に「オウムの会」というヨーガ道場に変更し、三ヶ月後の5月28日に「株式会社オウム」を設立する。のちに幹部になっていた石井久子、飯田エリ子、山本まゆみはこのころにオウムに入ってきた。また鍼灸治療もおこなっていた。

 

そのころ道場に通っていた学生によれば「当時のオウムは、宗教めいたところはまったくありませんでした。もちろん、ハルマゲドンということも言ってなかった。純粋にヨーガの修行をしていたんです」と言う。

ハルマゲドン思想とオウム神仙の会


株式会社オウムをつくってから一年後の1985年6月、永久に錆びないという不思議な金属「ヒヒイロカネ」を求めて東北の旅に出る。オカルト雑誌『ムー』(1985年11月号)に、麻原はヒヒイロカネを求めて旅をしたときの一部始終を書いている。

 

岩手県釜石市で泊まった旅館の主人からヒヒイロカネを研究しているという人物Fを紹介してもらい、Fからヒヒイロカネに導かれた酒井勝軍の「予言」内容に影響を受ける。

 

その内容の1つである「今世紀末、ハルマゲドンが起こる。生き残るのは、慈悲深い神仙民族(修行の結果、超能力を得た人)だ。指導者は日本から出現するが、今の天皇とは違う」という文章に影響を受け、「ハルマゲドン」を意識するようになる。

 

麻原はこの旅の一年後に「オウムの会」を「オウムの神仙の会」と改称し、ハルマゲドンを回避するために、三万人の解脱者を出すと言い始める。ヒヒイロカネの探しの旅は、結果としてその後のハルマゲドン思想の原石となった。

 

この老人Fはたくさんの餅鉄という磁鉄鉱石を麻原に贈っている。麻原はそれを、ヒヒイロカネと呼び、以来、オウムの修行ではプルシャ(教団のバッジ)ができるまで、ヒヒイロカネは神秘のパワーをもった石としてなくなはならないものとなる。

 

そして、旅の直後の1985年夏には、オカルト雑誌『トワイライトゾーン』の取材を受け、「2006年には核戦争の第一段階は終わっているだろう。核戦争は浄化の手段。だが"人が自分の分け前を割いて人に与えよう"と考えないかぎり、浄化はなくならない。私が目出すのは最終的な国、完璧な超能力者たちの国。超能力の獲得とは神に至る道だ。完璧な超能力者の集団を作りシャンバラを確立すべく、自分を神に変える修行をした」とコメントしている。

 

なお、ヒヒイロカネ探しの旅に出る4ヶ月前の1985年2月、「空中浮揚」に成功したとしている。

マスコミ戦略


オウム真理教が拡大に成功した要因の1つはマスコミ戦略である。1985年10月号にオカルト雑誌『トライワイトゾーン』に手持ちの空中浮揚の連続写真を掲載したり、6ページにわたって紹介されたのがマスコミ登場のきっかけだった。

 

以後、毎号のように麻原は同誌に連載を持つことになる。どうしてこのようなことができたかというと、毎号のように広告を出していたからである。

 

大手オカルト雑誌『ムー』でも、1985年10月号から、読者投稿のページに空中浮揚の写真を掲載し、ヒヒイロカネ探しのレポートが掲載された。

 

空中浮揚の現場をとらえた写真に、超能力開発グッズであるヒヒイロカネをもち、ハルマゲドンの思想を説き、それを回避するためにいっしょに解脱しようと激を飛ばす。

 

これまでの超能力者を名乗る人々は、グッズの販売や超能力を見せることのみに終始してきたが、智津夫は、それだけではなく、解脱へのノウハウを教え、自分もろとも歓喜の高みへ駆け上ろうと説いたところに新しさがあった

 

これらのオカルト雑誌に登場したあと、道場には、ひっきりなしに問い合わせの電話がかかってきた。ヒヒイロカネの読者プレゼントにも、応募が殺到した。渋谷の小さな道場に群れていたのは、こうした「ムー少年少女」たちであった。

ヨーガと瞑想の自信


オカルト雑誌に登場して以降、オウムの会は急減に会員を増やしていった。1985年の11月に、神奈川県丹沢山麓のヤビツ峠にある青山荘という山荘を借りきって、はじめての集中セミナーをはじめる。参加者は80名を数えた。収入としては、500万近く売り上げた。

 

この頃から、麻原のシャクティーパットは注目されはじめた。シャクティーパットは麻原がもっとも得意とするわざである。会員を仰向けに寝かせ、自分は頭のそばで座禅を組む。額に親指を押し当て、しばらくこすりつけるようにしていると、尾骶骨のあたりに眠っているとされるクンダリニーと呼ばれる根源的な生命エネルギーを覚醒させることができるのだという。

 

「あれだけは本物でした。尾骶骨がガスバーナーで焼かれているようだった」

 

と元信者は語る。インドの本場のヨーガをもちこみ、本格的な指導をするものは、この当時、麻原ひとりしかおらず、噂を聞きつけ、ヨーガ教室の講師、高野山、永平寺の修行僧までがセミナーに来るようになった。

 

シャクティーパットこそは人々に驚嘆と歓喜をあたえるものであり、彼自身にも求心力をもたらしてくれる大きな力となっていた。自他ともに満たされるこのような体験は、麻原にとってはじめてのことだった。

 

肉親を憎悪し、二度の逮捕という躓きだらけの青春を歩んできた麻原にとって、ヨーガの修行と瞑想こそは、生い立ちやコンプレックスを乗り越えるものとして存在したかもしれないという。

最終解脱


麻原がヨーガ道場を「オウム神仙の会」と改名したのは1986年4月である。それとともに「宗教団体」と名乗りはじめた。このころ正式に会員となったのが、早川紀代秀、新実智光、大内利裕とその妻、妹の大内早苗、岡崎一明らであった。

 

5月、麻原は5、6人の弟子たちとともに、念願のインドへ向かう。ヨーガの本場でグルを探し当て、自分の修行の度合いを確かめたいと考えていた。インドで麻原はパイロット・ババに指導を受け、これまでにない体験を味わった。クンダリニーの覚醒がすさまじい勢いで起こり、もう一歩で最終解脱を迎えるまでにいたった。

 

二ヶ月後の7月、麻原は妻の知子を連れて、再びニューデリーにパイロット・ババを訪ねる。インド・ヒマラヤのガンゴトリという高峰の麓で、瞑想に入り最終解脱にいたる


■参考文献

・『麻原彰晃の誕生』高山文彦