【地下文書】麻原彰晃「日出づる国、災い近し」02「北伝仏教と南伝仏教」

10のパーラミターと日本の今後


南伝仏教について


『南伝大蔵経』によると、ボーディサットヴァが達成しなければならない道、これを10のパーラミターとして表現している。これはオウム真理教の帰依信徒が実践している、まさに10の実践ということができる。

10のパーラミターの内容


その内容は

・「布施」

・「持戒」

・「解放」

これは実際は現世から解き放されること、つまり現世の束縛から解放されることをいう。「出家」を意味する場合が強い。

 

・「智慧」

ここで現れる「智慧」とは、インスピレーションみたいなものを表していると考えたらよろしい。

 

・「精進」

そして、修行をこつこつこつこつと努力し続けること。

 

・「忍辱」

次に、カルマ落としに耐えること。

 

・「真理の徹底」

そして、法則そのものによって人生を生きること。

 

・「確定」

それから、それによってプラーナが上昇し、各チャクラを貫き、解脱するという「確定」。

 

・「聖慈愛」

すべての魂に対する愛。

 

・「聖無頓着」

それから、いっさいの現象に対して、例えばいろいろな苦しみの出来事が起きたとしても、それに対して頓着しないこと。

実践者は未来を不安視するな


これらの10の修行を実践している人にとって、95年がどうなろうと大した問題ではない。わたしもその中の1人である。

 

それはちょうど幸福な野ネズミが山火事に遭い、そしてすべての野ネズミが川に飛び込み死ぬとしたとしても、彼らは輪廻転生を繰り返すわけだし、その確かに「死」=「大きな苦しみ」という定義をすることはできるわけだが、それは1つの事象にすぎないととらえるだけの大きな視野に立つことができるからである。

 

ここで一曲。「修行よ進め」

北伝仏教について


南部仏教、南伝仏教による10のパーラミターに対して、北伝仏教にも同じように10のパーラミターが存在する。これは明らかに同じ仏教でありながら、南伝仏教と北伝仏教の目的としているところの違いというものが理解できる内容である。

 

南伝仏教の場合、先程も説明したとおり、清浄、つまり自分自身が清らかで、そしてまず悟り、解脱し、そして周りを慈愛によって導くということが主眼に置かれている。

 

ところが、北伝仏教になるとそうではない。皆さんも知ってのとおり、6つの状態に加えて、ここでは一応基本的に瞑想ステージの確定ということになるわけだが。その後に「実践」がくる。

 

この「実践」とは何かというと、6つの極限で得たものをより具体的に救済活動に役立てるということである。そして、第八番目、これが南伝と北伝の違いである。この北伝にくる第八番目は「祈願」と呼ばれるもので、これはより高い魂に対する帰依、より高い魂とのパイプ作りというものに主眼が置かれる

 

つまり、南伝仏教においては、個人の悟り・解脱ののちは、衆生に対する奉仕ということが義務づけられるわけだが、北伝仏教においてはそうではなく、より高い魂に対する帰依というものがここで確定されることになる。

 

これはどういうことを意味しているのかというと、南伝と北伝との違いである。「真理勝者」というものは、個々のスケールがあるんだと。つまり、同じ「真理勝者」といっても、その段階があるんだと北伝では考えているからである。そして、このより高い者に対する帰依ののち、「神通力」が徐々につき出す。この「神通力」がつくことによって、「現象そのものは空であり、本質ではない」という第10番目の「精通」が生じる。そして完全なる大乗のマハー・ニルヴァーナへと入っていくのである。

実践こそが北伝仏教


なぜチベットが僧を中心とした政争を行うのか。つまり政治的な争いを行うのかという意味について、この10のパーラミターを見ればよくわかるはずである。つまり、第7番目の実践、これはまさに法則によってすべての衆生を幸福にしようとする実践であり、この実践なくしてはボーディサットヴァと呼べないと考えるのが、北伝仏教だからである。

 




■出典

・麻原彰晃「日出る国、災い近し」