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【解説】見世物小屋「フリーク・ショー」の歴史

見世物小屋 / Freak show

畸形の人たちのエンタテイメントショー


概要


フリークショーとは“自然の畸形(freaks of nature)”と呼ばれる生物学的希少性を呼び物にしたショーのこと。日本語では見世物小屋に相当するものである。ショーで呼びものとなるのは、観客に衝撃を与える標準的な身体を持っている人々。巨人、小人、両性具有者、奇病の患者、全身に入れ墨を入れた者、また全身にピアスを入れた人、そして火を食べたり吹いたり、口に剣を突き刺す奇怪なパフォーマンスを行う人々たちのショーである。

歴史


16世紀半なかばころ、フリークショーはイギリスの大衆娯楽の1つとなった。畸形の人たちが一般大衆の興味や娯楽の対象として扱われはじめ、人びとは彼らをひと目見るためにショーに集まった。

 

初期のフリークショーにおける最も有名人は、イタリアのジェノヴァ生まれのシャム双生児のラザロ&ジョアンネ・バプティスタ・コリドー兄弟である。彼らはチャールズ1世の処刑裁判時に開催されたショーに現れ人気を博した。

 

兄ラザロの方は非常にハンサムで普通の男性だったが、ラザロの身体に寄生して胸にぶらさがっている弟のジョアンネは、口をきくことはできず、目は閉じたまま、口は開きっぱなしの状態だったといわれる。ショーが終わると、ラザロは不要な注目を集めるのを避けるため外套で弟を隠していたという。

ラザロ&ジョアンネ・バプティスタ・コリドー兄弟。チャールズ一世にそっくりだった。
ラザロ&ジョアンネ・バプティスタ・コリドー兄弟。チャールズ一世にそっくりだった。

見世物小屋はおもに居酒屋や遊園地などで開催されて人気を博した。18世紀では、腕がなく、短い足の小人のマティアス・ブヒンガーがマジックショーやミュージカルなどで驚くべき才能を発揮して人気者となった。

マジックショーやカリグラフィなど多様な才能をもちあわせ18世紀の小人マティアス・ブヒンガー。
マジックショーやカリグラフィなど多様な才能をもちあわせ18世紀の小人マティアス・ブヒンガー。

フリークショーの黄金時代


19世紀になると、特にイギリスとアメリカでフリークショーは人気を呼び、最終的には商業的な成功を収める娯楽産業のひとつにまで発展した。

 

1840年から1940年までフリークショーの黄金時代で、この時期に多くの肉的的、精神的に欠陥を持つ人たちや奇妙なパフォーマンスを行う人たちがフリークショーに招集されるようになった。多くはサーカスやダイム美術館(ハイブロウと異なるワーキングクラスを対象にしたロウブロウな美術館)や寄席などで開かれた。

 

週末に余暇を得られるようになったアメリカ中産階級の増加によって娯楽産業が発展するとともにフリークショーも並行して発展した。利益優先が行き過ぎて、ショーではフェイクの畸形も多く見られるようになりはじめた。しかし、このフェイクショーは結果として、その後、アメリカ大衆文化の要素(プロレスなど)として受容されるようになった。学者によれば、フェイクを含むフリークショーはアメリカ文化の発展において重要な要素であるという。

未開人や非西欧圏人の展示「人間動物園」の登場


 畸形の人だけでなく、非西洋圏の異民族・異人種たちの生態的な見世物展示「人間動物園」が、1870年代から行われるようになった。アフリカ系の黒人やネイティブ・アメリカンの展示が代表的なものだった。

 

1906年にはニューヨーク市のブロンクス動物園にコンゴのピグミー族の黒人オタ・ベンガが動物と一緒に展示された。こうした展示は当時各地で開催された博覧会でも行われ、好評を博した。

 

1910年の日英博覧会でも、日本文化や伝統工芸の展示と並び、パイワン族、アイヌの展示が行われた。オスロでは1914年、アフリカ系の80人が5カ月間、「コンゴの村」と名付けられた区画に住まわされ、当時のノルウェー人口の3分の2にあたる約140万人が見物に訪れたとされる。

ブロンクス動物園のオタ・ベンガ(1906年)
ブロンクス動物園のオタ・ベンガ(1906年)
1928年にドイツのシュトゥットガルトで行われた人間動物園のポスター
1928年にドイツのシュトゥットガルトで行われた人間動物園のポスター

興行主はあらゆる種類のフリークスを展示した。非白人や身体障害のある人々は、よく未知の人種や文化として展示されることがあった。また、これら非白人や障害のある人々は、観客の目を引く未知の人間として宣伝に利用された。

 

頭の先端がとがり、小さな身体で、精神的に遅滞のある小頭症の人々は、 類人猿と人間との中間にあったと仮想される動物「ミッシングリンク」の特徴であるとみなされ、また絶滅した人種の先祖返り的な標本として扱われた。

 

体格がよく、身体的にも健康的な小人は高尚な人として扱われた。頭や手足の大きさと胴体と揃わない小人はエキゾチックとされた。

 

四股のない身体障害のない人は、蛇人間やオットセイ人間など“動物人間”として扱われた。

 

20世紀最初の10年間で、フリークショーの人気は低下し始めた。全盛期はフリークショーは催し物会場のメインアトラクションだったが、1940年までに客は興味を失い始めた。

代表的な興行


バーナムのアメリカ博物館


P・T・バーナムはサーカスを設立したことで知られる最も有名な興行師であり、近代宣伝の父とみなされている。

 

しかしながら、バーナムの見世物で紹介されるフリークスの多くは、フェイクであることはよく知られていた。たとえば、「161歳でジョージ・ワシントンの元乳母」という触れ込みで、黒人女性ジョイス・ヘスを見世物小屋に出演させた。さらに、実はジョイス・ヘスは機械仕掛けの人形で、腹話術師がしゃべっているなどデタラメな噂を意図的に流したりした。

 

バーナムはビジネスの背後にある、このような不適切な倫理観に気づいていたが、「私は一般大衆を欺こうとおもってない。彼らはフェイクであっても喜んで見てくれるだろう」と話している。バーナムは、このような過激な興行宣伝を行い、興行に関する奇妙な逸話を作り上げていった。

 

1841年にバーナムは、ニューヨーク劇場兼博物館の「バーナムのアメリカ博物館」を設立し、そこでデブ女、小人、巨人をはじめ、フリークスとみなされるさまざまな人達を集めて、絶え間ないスケジュールでショーを開催していた。この博物館はアメリカで最も人気がある興行の一つになり、1年間に40万人以上の人々が劇場に訪れた。

 

劇場の正面には、アトラクションを紹介するためのきらびやかなバナーが装飾され、外でバンドが演奏を行った。

 

彼は興行師であり、同時に珍品コレクターとしても知られていた。そうしたこともあって、バーナムの劇場は、ただ人を楽しませるだけでなく、展示物のさまざまな講義なども行っていた。チケット1枚購入すると、講義の受講、見世物ショー、動物園、そのほか生死への好奇心を垣間見れるものを楽しむことができた。

「バーナムのアメリカ博物館」正面。1853年頃。
「バーナムのアメリカ博物館」正面。1853年頃。
内部劇場風景
内部劇場風景

バーナムのショーの中心は、小人症のゼネラル・トム・サム(本名:チャールズ・ストラットン)で、彼がショーに出演した当時は4歳だったが、11歳として紹介された。

 

トム・サムは生後6ヶ月で成長が止まり、身長は64cm、体重は6.8キロ。厳しいトレーニングと生まれた持った才能で、ショーでトム・サムはヘラクレスやナポレオンなど歴史的英雄の物真似をして人気者になった。トム・サムは5歳でワインを飲み、7歳で公衆の前で煙草を吸っていた。

 

1844から45年の間に、バーナムはトム・サムとともにヨーロッパ公演も行い、その際にはヴィクトリア女王とも面会し、彼女を楽しませた。

 

バーナムはトム・サムに週給150ドルの給料を支払っていた。トム・サムが引退した際、彼はニューヨークで一番尊敬される地区に住み、ヨットを所有し、高価で美しい服を着ていたという。

10歳の頃のトム・サム(1848年)
10歳の頃のトム・サム(1848年)
バーナムとトム・サム(1850年)
バーナムとトム・サム(1850年)
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