ベティ・ブロードベント/ Betty Broadbent
20世紀で最も写真に撮られた刺青の女

人はなぜ痛みを選び、身体に物語を刻むのだろうか。ベティ・ブロードベントの皮膚に広がる聖母子や英雄たちの像は、単なる装飾ではなく、彼女自身の生き方を証明する記号であった。社会が「美」と呼ぶ枠を超えて、苦痛さえも芸術に転じるとき、そこには「自己をいかに表現し、いかに生き切るか」という普遍的な問いが浮かび上がる。
概要
生年月日 | 1909年11月1日 |
死没月日 | 1983年3月28日 |
国籍 | アメリカ |
職業 | エンターテイナー、刺青師 |
芸名 | タトゥーのヴィーナス |
ベティ・ブロードベント(1909年11月1日 – 1983年3月28日)、別名「タトゥーのヴィーナス」は、20世紀でもっとも多く写真に収められた刺青女性とされている。彼女はまた刺青師としても活動した。1981年には、初めて「タトゥーの殿堂」に殿堂入りした人物となった。アメリカ合衆国、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドの主要なサーカス団で公演を行った。
刺青を入れるまで
ブロードベントは、フロリダ州ゼルウッドでスー・リリアン・ブラウンとして生まれた。両親はノースカロライナ州の出身で、彼女が子どもの頃にフィラデルフィアへ移り住んだ。オーランドで両親と口論したのち、彼女は若くして家を出て、サイドショーのイリュージョン演目に出演していた。
ブロードベントが刺青に興味を持ち始めたのは14歳のときだった。アトランティックシティでナニーとして働いていた際、ボードウォークでジャック・レッドクラウドに出会ったのである。全身に刺青を施していたレッドクラウドの姿は、彼女を強く魅了した。
この興味から、レッドクラウドはブロードベントを自身の刺青師チャーリー・ワグナーに紹介することとなった。
1927年、ワグナーはトニー・ライネギアー、ジョー・ヴァン・ハート、そして同じく刺青芸人アルトリア・ギボンズの夫であるレッド・ギボンズら複数の刺青師とともに、ブロードベントの身体に565点を超える刺青を施し、全身を覆う「ボディスーツ」を完成させたのである。

この時期については、彼女自身が広めた複数の異なる逸話が存在する。一つの説では、裕福で社会的地位のある家族から、アトランティックシティで小さな刺青を入れて帰宅したことで勘当され、相続権を失ったため、再びアトランティックシティへ戻り全身に刺青を施すことを決意したとされる。
ブロードベントの刺青はテーマも多彩であった。背中には「聖母子像」が彫られており、下肢には右脚にチャールズ・リンドバーグ、左脚にパンチョ・ビリャの姿が刻まれていた。なかでも有名なのは、片方の肩からもう片方の肩にまで広がる大きな鷲の刺青で、完成までに6回の施術を要したという。他には、バラ、アメリカ国旗、海賊、ジプシー、ヴィクトリア女王、その他の有名人などが描かれていた。個々のモチーフは、花のモチーフで繋がれていることもあった。
1939年5月3日付のニューヨーク・タイムズは、ブロードベントの言葉を引用している。
「ひどく痛かったけれど、その価値はあったわ。」

サーカス団へ
チャーリー・ワグナーは、サーカス関係者であるクライド・イングルズと親交があった。イングルズがブロードベントの刺青への情熱を知ると、彼女にサーカスでの出演を提案した。
同じ年、ブロードベントは「リングリング・ブラザーズ&バーナム・アンド・ベイリー・サーカス」で自身の刺青アートを披露し始めた。サーカスでの活動中、彼女はまた、曲芸師トム・ミックスと共演するための牛乗りの訓練も受けていた。さらにキャリアを重ねるなかで、ブロードベントは馬やラバに乗る技術も習得していった。
小さな靴下と「えくぼの笑顔」をたたえた彼女の姿は、典型的な「オール・アメリカン・ガール」として受け取られ、「世界最年少の刺青女性」として宣伝されることもあった。その一部には「刺青のヴィーナス」という呼び名も使われた。
当初の舞台衣装は膝丈までのものであったが、時代の流れとともに女性がより多くの肌を見せることが容認されるようになると、バート・グリムによって大腿部の上部にも刺青を施し、短い衣装で登場するようになった。
ブロードベントは常に、自らの舞台を「上品」で「芸術的」なものに保つことを重視していた。インタビューや記事でも、彼女の淑やかな振る舞いや品格ある印象が繰り返し強調されていた。
自身の刺青アートを披露するだけでなく、ブロードベントは刺青師としても活動した。モントリオール、サンフランシスコ、ニューヨークをはじめ、全米各地のショップで仕事をしていた。
1930年代、ブロードベントはアル・G・バーンズ・サーカスやセルズ=フロート・サーカスなど、さまざまなショーに出演していた。キャリアを重ねるなかで、彼女は障害馬やラバの乗馬も習得した。サーカスで働く間にはブルライディング(雄牛乗り)の訓練も受け、俳優で芸人のトム・ミックスと共演したほか、ハリー・ケアリーのワイルド・ウエスト・ショーにも出演した。
さらに、自ら刺青の技術を学んだ後は、出演活動と並行して、またサーカスのオフシーズンである冬の間には、モントリオール、サンフランシスコ、ニューヨークなど全米各地の刺青スタジオで刺青師としても活動していた。
1937年には活動の場を海外へ広げ、ニュージーランドやオーストラリアの独立系サーカスで働いた。その後アメリカへ帰国してから引退する1967年まで、ブロードベントはサイドショーに出演しながら各地を巡業し続けた。1939年には、ニューヨーク万国博覧会の美人コンテストに出場し、1930年代の女性美に対する伝統的な価値観に挑戦したことでも知られている。このコンテストはテレビで初めて放送された美人コンテストでもあった。
同年冬には、シカゴの「ダイム・ミュージアム」で働いていた。
ブロードベントは1983年3月28日、フロリダの自宅で眠るようにして亡くなった。
プライベート
ブロードベントはその生涯のなかで何度も結婚を経験している。1928年頃、19歳でエドウィン・バーバンクと結婚するが、この結婚はすぐに離婚に終わった。
1930年代初頭には、ワイルドウエスト・ショーの出演者ホセ・カーターと事実婚関係に入り、二人はシカゴからミズーリへの帰路で事故に遭った。カーターは貨物列車に飛び乗ろうとして命を落とし、その時ブロードベントは妊娠していた。
息子のジョー・カーターは1933年末から1934年初頭にかけて誕生し、ベティはオフシーズンの間もカーターの家族と共に暮らした。
1940年5月、彼女はサーカスの奇術師で腹話術師のチャーリー・ロアークと結婚したが、この結婚も後に離婚となった。その後、サーカス「クライド・ビーティ・コール・ブラザーズ」で働いていたとき、機械係のウィンフォード・エモリー・ブルーワーと出会い、1969年3月に結婚した。
彼女は1967年から68年頃までサーカスのサイドショーに出演し、各地を巡業したのち、フロリダ州リヴァービューに隠居。両親からの遺産で農場を購入し、夫とともに農業を営んだ。
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