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【見世物】ウィアイム・ヘンリー・ジョンソン「元祖ピンヘッド「ジップ・ザ・ピンヘッド」」

ウィアイム・ヘンリー・ジョンソン/ William Henry Johnson

元祖ピンヘッド「ジップ・ザ・ピンヘッド」


概要


 

生年月日 1842〜43年
死没月日 1926年4月9日
国籍 アフリカ系アメリカ人
病名 小頭症
ステージ名 ジップ・ザ・ピンヘッド、Zip the What Is It?

ウィアイム・ヘンリー・ジョンソン(1842〜43年-1926年4月9日)はアメリカのパフォーマー。小頭症。"ジップ・ザ・ピンヘッド"や"ジップ・ザ・ワット・イズ・イト?"というステージネームで、P・T・バーナムのフリークショーに出演して人気を博した。

幼少期


ウィアイム・ヘンリー・ジョンソンは貧しいアフリカ系アメリカ人家庭の6番目の子どもとして生まれた。父ウィリアムと母マハリア・ジョンソンは以前は奴隷だった。ヘンリーは成長するにつれて身体は正常に発達したが、頭は小さいままだった。

 

彼の先細った頭蓋骨と大きなあごは、ニュージャージー州のソマービルで活動していたヴァン・エンフォル・サーカスの関係者の目に留まる。小さな頭の珍しい外見から"ピンヘッド"もしくは小頭症と思われた。小頭症患者は小さく細い頭蓋骨が特徴であり、知的能力が低い場合がよくある。論じられたところによれば、やはりウィアイム・ヘンリーも知的障害だったと考えられている。

 

ウィリアム・ヘンリーの両親は、出演料しだいでヘンリーをヴァン・エンフォル・サーカスに出演させることを承諾した。当初、彼はサーカスで「ミッシング・リンク」という売り文句を付けられた。ミッシング・リンクとは、たとえば現生人類と類人猿の間につなぐような進化中の生物のことである。

 

ヘンリーはアフリカで捕獲されたミッシング・リンクという触れ込みで、檻に入れた状態で展示され、サーカスで非常に人気の高いサイドショー・アトラクションの1つとなり、その評判は当時の著名ショーマンで知らP・T・バーナムのもとまで届いた。

 

バーナムはヘンリーを扱っていたサーカスから彼を引き抜く。彼の身体にあった毛皮のスーツが作って着せ、突き出た額をさらに強調させるよう髪の毛を束ねてとがらせ、「ミッシング・リンク」から「ジップ・ザ・ピンヘッド、What-Is-It?」という売り文句に変更した。これが後に定番となる"ピンヘッド"スタイルの誕生である。

ミッシング・リンクの衣装を着て黒人ボクシングを行うジップ。
ミッシング・リンクの衣装を着て黒人ボクシングを行うジップ。

バーナムのアメリカ博物館で人気者になる


ジップの初期のパフォーマンスは生い立ちとは対称的だった。アフリカで発見されたミッシング・リンクの部族の一人と観客に紹介された。あわせて"野人""What-Is-It?"とも紹介され、ジップは生肉、ナッツ、果物を主食としてきたが、現在はパンやケーキなどの文明的な料理を食べることを覚えているところであると説明された。

 

ジップは檻の中に入れられて、檻の枠をつかんでガタガタさせたり、叫んだりして観客をひつけた。このパフォーマンスはバーナムの興業で大成功して、バーナムのアメリカ博物館でジップはシャム双生児のチャン&エン・ブンカーと並ぶ人気者となった。

 

後年、ジップは"教化"され、同僚で友人の巨人症で"テキサスの巨人"ことジム・トレーバーや、世界で一番背の高い男ジャック・アール、鳥女ことクー・クーら多くのほかのフリークスたちと共演するようになった。また、ジップはリングリング・ブラザーズ・サーカスでアメリカ中を巡業公演もした。

 

ジップは当時の重要な人物として世界中から注目されていた。1860年ににはウェールズ王エドワード7世がバーナムの博物館を訪問しており、ジップと面会している。

 

この時代、ジップの親友でありマネージャーはキャプテンO.K.ホワイトだった。ホワイトは誠意的にジップにとってメリットを模索した。ホワイトは晩年までジップに献身的に付き添った。ホワイトはジップに自身の所有物で貴重で高価なタキシードをプレゼントし、ジップは誕生日など特別な日にそのタキシードを着用した。

 

ジップが大事にしていた財産の1つとしてバイオリンがある。彼はケンタッキー州でバイオリンを購入している。そのバイオリンはかつてダニエル・ブーンが所有していたものだという。ジップはバイオリンを弾くのは下手だったが、観客はジップがバイオリンを演奏しながら踊る姿を楽しんだという。

1860年10月13日、ウェールズ王エドワード7世と面会。
1860年10月13日、ウェールズ王エドワード7世と面会。

晩年


晩年、ジップはコニー・アイランドでパフォーマンスするようになり、巡業公演にはあまり参加しなくなった。1925年のある日曜日の午後、ジップは小さな女の子が泣き叫んでいる声を聞いた。海に目をやると腕を振って溺れている少女に気づき、80歳初頭だったにも関わらずジップは泳いで彼女を救出した。

 

1926年初頭、ジップは気管支炎にかかる。医者やキャプテン・ホワイトが止めたにもかかわらず、彼はニュー・アムステルダム・シアターで演劇「サニー」に出演して、パフォーマンスを続けた。舞台が終わるとジップはニュージャージー州のバウンド・ブルックの自宅に戻り、医者やホワイトや姉弟の看病を受けたが、容態は悪化。ニューヨークのベルビュー病院に移送されたが亡くなった。

 

ジップは67年というかなり長いショー・ビジネス人生を送り、1億人以上の人々を楽しませた。そのため、ジップは"フリークス・マスター"の称号が与えられた。葬儀はサイドショーで人気を博したヒゲ女のジェーン・バーネルや刺青男のフランク・グラフなどが参列した。葬儀中にキャプテン・ホワイトは心神喪失し、3日後に亡くなった。

 

ジップ・ザ・ピンヘッドは1926年4月28日、バウンド・ブルック墓地399番地に埋葬された。墓石には「1857-1926」と記載されており、69歳で死去していることになるが、葬儀証書に記載されている彼の年齢は83歳となっている。

 

つまり、実際の誕生年は1842年か1843年だろうと考えられている。彼の1860年の写真を見ると、後者の誕生年のほうが正確で、つまり1857年というのは誕生年ではなく、仕事の開始年を示している可能性が高い。