【漫画家】徳南晴一郎「カルト漫画の最高峰」

徳南晴一郎 / Seiichiro Tokunami

カルト漫画の最高峰


怪談人間時計 (QJマンガ選書)より。
怪談人間時計 (QJマンガ選書)より。

概要


生年月日 1934年6月1日
死没月日 2009年12月24日
国籍 日本
表現形式 漫画
ムーブメント 貸本、90年代カルト漫画復刻運動

徳南晴一郎(1934年6月1日-2009年12月24日)は日本の漫画家。貸本作家。日曜画家。おもに曙出版を活動の基盤としていたが、貸本業界の崩壊とともに、漫画家を引退。

 

代表作品は、時計人間に襲われるシュールな作品『怪談 人間時計』。ドイツ表現主義の影響と思われる歪んだデフォルメ表現は、読者になんともいえない不安感を募らせる。これに、SF小説に影響を受けたと思われる難解なストーリーや、「無階」や「指地図夫」といった一度聞くとゾッとしてトラウマになるようなキャラクター名があいまって、カルト漫画の最高峰として評価されている。

怪談人間時計 (QJマンガ選書)より
怪談人間時計 (QJマンガ選書)より
怪談人間時計 (QJマンガ選書)より
怪談人間時計 (QJマンガ選書)より

略歴


幼少期


徳南晴一郎は1934年6月1日に8人兄弟姉妹の長男と生まれる。幼稚園にあがる数年前にジフテリアを患い、下垂体性機能不全小人症を発病。このため身長140cmで発育が停止。そのため、子供の頃から常にいじめにあい、人間嫌いで神経質な性格の元となった。

 

1953年、石森章太郎主宰の同人誌『墨汁一滴』に参加。大阪の高校を卒業後、知人の紹介で漫画家藤原成憲と知り合い、専売公社の宣伝活動に参加して街頭で漫画を描いた。

 

同じころ、大阪市立天王寺美術研究所に研究生として在籍。しかし1955年に行きづまりを感じて同研究所を退いた後に漫画の世界に入る。

漫画活動


サブカルチャー研究家の宇田川岳夫の解説によれば、徳南晴一郎の漫画家としての活動は、1955年から63年までの8年間である。この短い期間に彼の作風は4度変化しているという。

 

第一期は55年から59年まで。大阪の東光堂からデビュー作『あらしの剣』を発表。その後各社から手塚治虫的な絵柄の時代劇物(例『笑狂四郎補物控』三島書店)を発表し、曙出版に活動の場を定める。この時期の作風は、何の変哲もない児童向け貸本漫画ともいうべきものである。

 

第二期は60年から61年まで。曙出版の青春劇画アンソロジー『ティーン・エイジャー』などに市川誠一名義で青春漫画短編を発表した時期である。初期の手塚治虫的な丸いタッチから後年のとげとげしい画風へと変化をきたし、青春漫画とはいうものの読者を滅入らせるような暗い内容の作品を連発した時期である。

 

例えば『道草』(『ティーン・エイジャー』15号所収)はクロスワード・パズルの賞金で生活するオタクな工員の物語であり、『雨の中の素顔』(『ティーン・エイジャー』19号所収)は、おもちゃ工場で働く工員がふとしたことから拳銃密造・麻薬密売に巻き込まれる物語であるが、両作品とも工場の機械の描写や主人公の心象風景の描写に後年の作品の特徴がすでにうかがえる。

 

第三期は62年7月から9月まで。一連のシュールな作品、『化猫の月』『人間時計』『猫の喪服』などを連発した時期である。『化猫の月』は化け猫を題材とした怪奇時代劇。『人間時計』『猫の喪服』は不条理に満ちたストーリーで、シュルレアリスムだけでなく、ドイツ表現主義な描写も数多く見られる。個人的に徳南がドイツ語を学んでいたという事実もあるため、ドイツの前衛表現に興味を持っていたと思われる。ほかにSF小説に関する当時としては非常に深い造詣もうかがえる。

 

第四期は62年10月から63年まで。断末魔の様相を表してきた貸本業界の中で生活のための戦国武将物(『豊臣秀吉』『徳川家康』『織田信長』『伊達政宗』)を描くが人気を博することなく、ついには漫画家を引退して故郷の大阪へ帰ることを決意する、チルアウトの時代とも言うべき時代である。

 

引退後


生家のパン屋を手伝っていたが、大手製パン会社の進出で店が潰れたため、電気商工新聞社に就職。

 

以後、印鑑のセールスや無線配車タクシーの手配の仕事など職を転々としつつも一介のサラリーマンとして過ごし、二度と漫画を発表することはなかった。ただし日曜画家として油絵を描き続け、1979年には創元会第38回展覧会に入選したこともある。油絵画家としての名前は徳南誠吾。

 

2010年1月、前年の12月24日に死去。

■参考文献・画像引用

怪談人間時計 (QJマンガ選書)

 


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