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【完全解説】ノストラダムス「世界で最も有名な予言者」

ノストラダムス / Nostradamus

世界で最も有名な予言者


概要


生年月日 1503年12月14日または21日
死没月日 1566年7月1日または2日
国籍 フランス
職業 占星術師、医師、予言者
代表作 ・『予言集」

ミハエル・デ・ノストラダムス(1503年12月14日または21日〜1566年7月1日または2日、出典によって異なる)は、フランスの占星術師、医師、予言者

 

未来の出来事を予言したとされる942の詩的な4行詩を集めた著書『予言集』の著者として一般的に知られている。この本は1555年に初版が出版された。

 

ノストラダムスの父方ルーツはもともとユダヤ人であったが、彼が生まれる一世代前にカトリックに改宗している。アヴィニョン大学で学んでいたが、ペストの流行が重なり大学が閉鎖され、1年余りで退学を余儀なくされた。

 

博士号取得を目指してモンペリエ大学に入学する以前に数年間薬屋として働いていたため、薬屋としての仕事(大学の法令で禁止されている)が発覚し、すぐに退学となった。

 

1531年に最初の結婚をしたが、1534年に妻と2人の子どもをペストで失う。その後、医師たちとともにペストと戦った後、アンヌ・ポンサルドと再婚し、6人の子供をもうけた。

 

彼は1550年のアルマナック(暦)を書き、その高い評価で、その後もさまざまな年のアルマナックを書き続け、さまざまな裕福なパトロンから援助を受けるようになり「占星術師」として活躍するようになる。カトリーヌ・ド・メディチは、彼の最も重要なパトロンの一人となった。

 

1555年に出版された『予言集』は、歴史的・文学的な先例として大きな役割を果たしたが、当初は賛否両論があった。

 

ノストラダムスは、『予言集』を出版して以来、多くのファンを獲得し、多くのマスコミとともに、世界の主要な出来事を正確に予言したと評価されている。

 

しかし、ほとんどの学術資料において、ノストラダムスには本物の超自然的な予言能力があったという評価は否定されており、世界の出来事とノストラダムスの詩の関連付けは、解釈側の誤解や誤訳(ときには故意に)の結果であると分析されている。

 

また、ノストラダムスの予言の特徴は「曖昧」であり、事実上、何の出来事でも彼の予言が的中したかのように話せ、本当に予言の力を持っていたかどうかを判断するのには役に立たないと学者たちは主張している。

 

晩年はひどい痛風に悩まされ、やがて浮腫みが出はじめた。1566年7月1日か2日に死去。彼の人生については、多くの人気作家たちが偽りの伝説を語り継いでいる。

重要ポイント

  • 『予言集』で歴史的・文学的において高い評価を得た
  • 世界の出来事とノストラダムスの詩の関連付けは、解釈側の誤解や誤訳の結果
  • 予言の特徴は「曖昧」であり、何の出来事でもあてはめることができる

経歴


幼少期


ノストラダムスは1503年12月14日か21日にフランスのプロヴァンス地方のサン=レミー=ド=プロヴァンスで生まれ、ミシェルという洗礼名を受けた。

 

父は公証人のジャウム(またはジャック)・ドゥ・ノストレダムで、母はサン・レミーで医師として働いていたピエール・ドゥ・サン・レミーの孫娘レイニエールである。二人の間に少なくとも9人の子どもがおり、ノストラダムスはそのうちの1人である。

 

ジャウムの家系はもともとユダヤ人であったが、アヴィニョンで穀物や貨幣の商人をしていた祖父のクレスカスは、1459年から60年頃にカトリックに改宗し、クリスチャンネームの「ピエール」と、改宗を祝った聖人である「ノストレダム(聖母)」という名字を名乗りはじめた。

 

父方の祖先として確認できるのは、1420年頃に亡くなったカルカソンヌのアストルージュである。ミシェルの兄弟としては、デルフィーヌ、ジャン(1507年頃~1577年)、ピエール、ヘクター、ルイ、ベルトラン、ジャン2世(1522年生まれ)、アントワーヌ(1523年生まれ)がわかっている。

 

幼少期についてはほとんど知られていないが、母方の曽祖父であるジャン・ド・サン・レミーから教育を受けたという伝承が根強く残っている。この伝承は、1504年に子供がわずか1歳になった時点で史料から消えていることから、この裏付けは弱い。

学生時代


14歳のとき、ノストラダムスはアヴィニョン大学に入学し、学士号を取得するため勉学に励む。幾何学、算術、音楽、天文学・占星術の四部構成ではなく、文法、修辞学、論理学の正規の三部構成で学んだ。

 

1年あまりの後、ペストの発生で大学が閉鎖されたため、アヴィニョンを離れることになった。アヴィニョンを去った後、ノストラダムスは1521年から8年間、地方を旅して薬草の研究をしていたと本人は語っている。

 

薬屋として数年過ごした後、1529年にモンペリエ大学に入学し、医学博士号を取得する。しかし、大学の法令で禁止されている「手工業」である薬屋をしていたことや、医師を誹謗中傷していたことが発覚し、学生監督官のギヨーム・ロンドレによってまもなく退学処分となった。

 

追放された後も、ノストラダムスは薬屋として働いていたと思われ、ペストに効くという「バラの薬」を作ったことで有名になった。

結婚と医療活動


1531年、ノストラダムスは、ルネサンス期の代表的な学者であるジュール・セザール・スカリガーに招かれてアジャンを訪れる。アジャンでは、名前のはっきりしない女性(アンリエット・ダンカウスと思われる)と結婚し、2人の子供をもうけた。

 

1534年、彼の妻と子供たちは、おそらく疫病で亡くなった。家族の死後、彼は旅を続け、フランスとおそらくイタリアを旅している。

 

1545年に帰国すると、著名な医師であるルイ・セールを補佐してマルセイユで発生した大規模なペストと戦い、さらにサロン・ド・プロヴァンスや地方都市エクサンプロヴァンスで発生した疫病にも独自の対処をした。

 

そして、1547年にはサロン・ド・プロヴァンスの現在の家に居を構え、アンヌ・ポンサルドという裕福な未亡人と結婚し、3人の娘と3人の息子の計6人の子供をもうけた。

 

1556年から1567年にかけて、彼と彼の妻は、アダム・ド・クラポンヌが計画した大規模な運河プロジェクトの13分の1の株を取得した。

 

クラポンヌ運河を建設し、ほとんど水のないサロン・ド・プロヴァンスと近くのデサート・ド・ラ・クローにデュランス川から灌漑する計画だった。

オカルティズム


再びイタリアを訪れたノストラダムスは、医学から離れて「オカルト」に傾倒していく。世間の流れに乗って、1550年の暦を書き、初めて出版し、そのときに自分の名前をラテン語にしてNostradamusと表記した。

 

彼は、この暦の成功に勇気づけられ、毎年1冊以上の暦を書くことを決意する。

 

合わせて、少なくとも6,338の予言と、少なくとも11の年間カレンダーを書いたことで知らているが、これらはすべて1月1日に始まっており、3月に始まると思われることはない。

 

この暦をきっかけに、貴族をはじめとする遠方の有力者たちが、すぐに彼に星占いや「心霊的」アドバイスを求めるようになった。

 

しかし、彼はプロの占星術師のように自分で出生図を計算するのではなく、その根拠となる出生図を依頼者から提供してもらうのが一般的だった。

 

当時公表されていた表に基づいて自分で試みなければならなかったとき、彼はよく失敗して、顧客の出生地や出生時刻の数値を調整することができなかった。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Nostradamus、2021年10月30日アクセス