ナチスの人体実験「軍事的必要性から正当化された人体実験」

ナチスの人体実験 / Nazi human experimentation

軍事的必要性から正当化された人体実験


海水を安全に飲めるようにするための医学実験の犠牲者のロマ人
海水を安全に飲めるようにするための医学実験の犠牲者のロマ人

概要


ナチスの人体実験は、第二次世界大戦中の1940年代前半からなかばにかけて、ナチス・ドイツが強制収容所で子どもを含む大量の捕虜を対象に行った一連の医学実験のことである。

 

おもな対象者は、ロマ民族、シンティ・ロマ人、ポーランド民族、ソ連軍捕虜、身体障害者のドイツ人、ヨーロッパ各地のユダヤ人だった。

 

ナチスの医師と助手たちは、囚人を強制的に参加させた。囚人は自ら進んで実験に参加したわけではなく、実験に対する同意も得られていなかった。

 

一般的に、実験は麻酔なしで行われ、死亡、外傷、醜い外見、生涯にわたる障害・後遺症をもたらしたため、医療拷問の一例とみなされている。

 

アウシュビッツをはじめとする収容所では、エドゥアルド・ヴィルスの指揮下で、選別された収容者がさまざな人体実験を受けていた。

 

それはドイツ軍人の戦闘能力を高める目的、新兵器の開発目的、負傷した軍人の治療目的、そしてナチスの人種イデオロギーや優生学を推進する目的で行われたもので、ヨーゼフ・メンゲレの双子の実験も含まれていた。同性愛者に対して、その性愛治療も試みられたという。

 

戦後、これらの人体実験は「医師裁判」と呼ばれる裁判で裁かれ、そこで行われた虐待への反発から、ニュルンベルクの医療倫理規定が作られた

 

医師裁判では、ナチスの医師たちは、軍事的必要性から人体実験を正当化し、その犠牲者は連合軍の爆撃による巻き添え被害者にたとえていたという。

 

戦後、逮捕されたヴィルスは獄中で自殺したが、ハイム、フェルネット、そしてヨーゼフ・メンゲレは国外に逃亡し、逮捕されることなく死去した。

実験


ニュルンベルク軍事裁判の起訴文書の目次には、「食物」「海水」「流行性黄疸」「スルファニルアミド」「血液凝固」「痰」などの医学実験項目が記載されている。

 

その後のニュルンベルク裁判での起訴状によると、これらの実験には次のようなものがあった。

双子の実験


強制収容所内で双子の子どもの実験は、環境に対する遺伝の優位性を示し、ドイツ人の繁殖率を高める方法を見つけるために行われた。

 

実験の中心人物はヨーゼフ・メンゲレで、1943年から1944年にかけて、アウシュビッツに収監されていた約1500組の双子に対して実験を行った。

 

約200人がこの研究で生き延びた。

 

双子は年齢や性別ごとに分けられ、実験の合間はバラックで養われた。切断したり、さまざまな病気に感染させたり、目に染料を注入して色を変えたりと、さまざまな実験が行われた。また、双子の身体を縫い合わせて結合双生児を作り、壊疽を起こさせ、最終的には死に至らせようとした。

 

往々にして、双子の片方が実験台にされ、もう片方は管理されていた。実験で死の淵に立たされた場合、もう片方の双子も同時に殺された。その後、医師が実験の影響を調べ、2人の体を比較した。

 

双子が一緒に小さな木製の檻に収監され、片方に背中に痛みを伴う注射が行われた。おそらく目の色を変える実験だったと言われている。

 

別の実験では野間病を引き起こす細菌の注射が行わたという。口や生殖器の感染症で潰瘍をを引き起こし、しばしば組織破壊を引き起こす。

骨、筋肉、神経などの移植実験


1942年9月頃から1943年12月頃まで、レーベンスブリュック強制収容所で、ドイツ軍のために骨、筋肉、神経の再生と、人から人への骨の移植を研究する実験が行われた。 

 

この実験では、被験者は麻酔なしで骨、筋肉、神経を切除された。これらの手術の結果、多くの犠牲者は激しい苦痛、切断、後遺障害を受けた。

 

1946年8月12日、Jadwiga Kamińskaという生存者が、ラーフェンスブリュック強制収容所にいた頃のことを証言し、2度の手術を受けたことを語っている。

 

2回とも片方の足の手術だったが、2回とも術後に激痛が走り、熱が出たが、手術後、何のアフターケアも受けられなかったと説明している。

 

カミンスカは、自分が「若い女の子で、ポーランドの愛国者だから」という理由で手術を受けたと言われたと語っている。手術後、数ヶ月間、脚から膿がにじみ出ていたことを語っている。

 

また、戦場で使用するために開発された新薬の効果を調べるために、囚人の骨髄に細菌を注入する実験も行われた。生き残った者は後遺症が残った。

頭部損傷実験


1942年なかば、ポーランド占領下のバラノヴィッチェで、ナチスSD保安部の役員として知られる人物の個人宅の裏手にある小さな建物で、「11歳か12歳の少年を椅子に縛り付けて動けないようにした」実験が行われた。

 

彼の頭上には機械化されたハンマーがあり、数秒ごとに彼の頭の上に降りてきた」。少年はこの拷問で気が狂ってしまったという。

凍結実験


1941年、ドイツ空軍は低体温症の予防と治療法の発見を目的とした実験を行った。実験は360~400回、犠牲者は280~300人で、中には2回以上実験を受けた犠牲者もいた。

 

被験者はタンク1杯分の氷水で、最大5時間、耐えることを強いられた。他の実験では、−6℃(21°F) 程の温度の屋外に、囚人は裸で何時間も置き去りにされた。一部の犠牲者は身体を温め直すために熱湯に放り込まれたという。

 

1942年8月に始まったダッハウ収容所では、囚人たちは凍った水の入ったタンクの中に3時間も座らされた。凍らされた被験者は、その後、さまざまな方法で温め直された。多くの被験者がこの過程で死亡した。

 

冷凍・低体温症実験は、東部戦線において、ドイツ軍が寒冷地の気候に対する準備不足により苦戦していたため、ナチスの最高司令部が、その気候条件をシミュレーションするように命令を下して行われた。

 

ロシア人捕虜に対して多くの実験が行われており、ナチスは、ロシア人の遺伝子がその耐寒力を、ドイツ人よりも強いものにしていたかどうか疑問に思っていた。

 

ダッハウに駐在していたSS医師のジグムント・ラッシャーは、1942年に開催された医学会議「海と冬から生じる医学的問題」で、自分の冷凍実験の結果を公表した。

 

ラッシャーは1942年9月10日の手紙の中で、ダッハウで行われた、戦闘機パイロットの制服を着せて凍った水に沈めるという強烈な冷却実験について述べている。

 

ラッシャーは犠牲者の一部を完全に水中に沈め、他の者は頭を残した。この実験の結果、約100人が死亡したと報告されている。

マラリア実験


1942年2月頃から1945年4月頃まで、ダッハウ強制収容所では、マラリア治療のための免疫を調べるための実験が行われた。

 

健康な収容者に、蚊や雌の蚊の粘液腺から抽出したエキスを注射して感染させた。

 

マラリアに感染した後は、さまざまな薬で治療し、その効果を検証した。この実験には1,200人以上が参加し、半数以上が死亡した。 また、後遺症が残る被験者もいた。

免疫実験


ドイツのザクセンハウゼン、ダッハウ、ナッツヴァイラー、ブッヘンヴァルト、ノイエンガンメなどの強制収容所では、科学者たちがマラリア、チフス、結核、腸チフス、黄熱病、伝染性肝炎などの伝染病の予防と治療のために、免疫化合物や血清を実験していた。

流行性黄疸


1943年6月から1945年1月まで、強制収容所のザクセンハウゼンとナッツヴァイラーで、流行性黄疸の実験が行われた。この実験では、黄疸の新たな予防接種を発見するために、被験者に病気の注射が行われた。

 

これらの実験は、ドイツ軍の利益のために行われた。実験ではほとんどの人が亡くなったが、生き残った人も大きな痛みと苦しみを経験した。

マスタードガスの実験


1939年9月から1945年4月までの間、ザクセンハウゼン、ナッツヴァイラーなどの収容所で、マスタードガスによる負傷の最も効果的な治療法を調べるために、多くの実験が行われた。

 

被験者は意図的にマスタードガスやその他の気化剤(ルイサイトなど)にさらされ、重度の化学熱傷を負いました。犠牲者の傷をテストして、マスタードガスによる火傷に最も効果的な治療法を見つけた。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Nazi_human_experimentation、2021年9月26日アクセス


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