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【見世物】ジョゼフ・メリック「エレファント・マン」

ジョゼフ・メリック/ Joseph Merrick

半分は人間で半分は象の見世物芸人


※1:1889年のメリックの肖像写真
※1:1889年のメリックの肖像写真

概要


生年月日 1862年8月5日
死没月日 1890年4月11日
国籍 イギリス
芸名 エレファント・マン
死因 窒息死(公式)
墓場 ロンドン王室病院骨格展示室
身長 157cm
関連人物 デヴィッド・リンチ

ジョゼフ・ケアリー・メリック(1862年8月5日-1890年4月11日)はイギリスの男性、見世物芸人。世界で最もひどい身体変形による畸形として知られている。

 

当初は「エレファント・マン」という芸名でフリークショーに出演していたが、のちに外科医のフレデリック・トレヴィスの紹介でロンドン病院に移る。入院後、大手新聞『タイムズ』や地方誌など、多くの新聞で彼の経済支援が呼びかけられ、イギリス社会で一般的に認知されるようになった。

 

メリックはイギリスのレスターシャー州レスターで生まれるが、産後しばらくして身体に異常が起きはじめる。原因は不明。11歳のときに母親が亡くなると父親は再婚。メリックは父親と継母の両方から嫌われ家を追い出されることになり、叔父のチャールズ・メリックのもとへ身を寄せる。

 

1879年、17歳のときにレスター・ユニオン救貧院に入院する。1884年にサム・トーという興行師と出会い、トーからフリークショーの出演依頼を受け、見世物芸人になる。

 

トーはメリックに「エレファント・マン」という芸名を付け、また、彼をマネジメントするための組織を作る。ミッドランド東部でメリックの巡業興行が開催されたあと、ロンドンへ移り、興行師のトム・ノーマンが運営していたペニー・ガフというワーキングクラス用の演芸場に見世物として出演する。

 

このノーマンの店に診察依頼を受けて、外科医のフレデリック・トレヴィスが訪れる。1884年にロンドン病理学会の会議でトレヴィスによりメリックが紹介されたあと、メリックの存在を知った警察がノーマンの演芸場を強制的に閉鎖する。職を失ったメリックはその後、サム・ローパーのサーカス団に加わり、イギリスを出国して、ヨーロッパ巡業を行うことになった。

 

しかし、巡業は振るわず1886年・メリック26歳のとき、オーストリア人の興行師がジョゼフの商品価値を見限り、メリックが貯えていた約80万の現金を略奪してベルギー・ブリュッセルで彼を放棄する。一文無しになったメリックは自力でロンドンへ戻り、トレヴィスを頼る。以後、残りの生涯をロンドン病院で過ごすことになった。

 

外科医のトレヴィスはが毎日彼のもとを訪問し、2人は親密な友情を育んだ。当初、対人恐怖症だったが、トレヴィスが紹介した女性との親交をきっかけに、徐々にコミュニケーションを行うようになる。

 

メリックはロンドン社会の上流階級の男女からも歓迎され、さまざまな人の訪問を受けた。イギリス国王エドワード7世の妃でイギリス王妃のアレクサンドラ・オブ・デンマークが訪問をしたこともあった。

 

メリックの公式な死因は窒息死だが、検死を行ったトレヴィスによれば正確には首の脱臼が死因だという。

 

メリックの病名は生前は不明だったが、1986年にプロテウス症候群が原因の身体の極度な変形と推測された。2003年にメリックの髪の毛や骨からDNA検査が行われたが、決定的といえる病名をくだす証拠は出なかった。

 

メリックの生涯は、おもに1979年にバーナード・ポメランスによる演劇や1980年にデビッド・リンチによる映画で紹介されている。

略歴


幼少期と家族について


「エレファント・マン」ことジョゼフ・ケアリー・メリックは1862年8月5日、イギリスのレスターシャー州にあるレスターのリー通り50番地で、父ジョゼフ・ロックリー・メリックと母メアリー・ジェーンの間に生まれた。

 

父ジョゼフ・ロックリー・メリック(1838−1897年)は、ロンドン生まれの織工バルナバ・メリック(1791−1856)の息子で、バルナバは1820年代から1830年代ごろにレスターに、3番目の妻サラ・ロックリーとともに移り住んだという。

 

母メアリー・ジェーン・ポッタートン(1837-1873年)はレスターシャー州のエビントン生まれで、彼女の父ウィリアム・ポッタートンは1851年のレスターシャー州サーマストンの人口調査によれば、農業労働者だったと記録されている。

 

なお、母メアリーは何らかの身体障害を抱えており、父ジョゼフ・ロックリー・メリックと結婚する前はレスターシャー州で家事使用人として働いてた。1861年に倉庫業者だった父ジョゼフ・ロックリー・メリックと出会い結婚する。

 

翌年1682年、ジョゼフ・ケアリー・メリックが誕生。産まれた直後は一見すると健康な状態で生まれ、数年間は特に大きな身体異常は見られなかったという。ジョゼフ・ケアリーという名前は、父親のファーストネームの「ジョゼフ」と、母親が信仰していたパブテストの宣教師ウィリアム・ケアリーの名前にちなんで、「ケアリー」がセカンドネームとして付けられた。

 

ジョゼフ夫妻にはケアリーのほかに少なくとも2人以上の兄弟がいたとされている。弟のジョン・トーマスは1864年4月21日に生まれ、同年7月24日に天然痘で亡くなっているが、彼は夫妻と関係がない子どもだったという。

 

1866年1月生まれの弟ウィリアム・アーサーは1870年12月21日に4歳で猩紅熱で亡くなっており、1870年のクリスマスに埋葬されている。ウィリアムの遺体はレスターにあるウェルフォードロード墓地にある母親と叔母と叔父と同じ墓に埋葬されている。

 

1867年9月28日に生まれた妹マリアン・エリザは身体障害者で、1891年3月19日に骨髄炎による発作で死去。マリアンはベルグレーブ墓地にある父方の方の墓に埋葬されている。

 

アシュレー・モンタギューの著書『エレファント・マン』によれば、外科医のトレヴィスが1923年に刊行した『エレファントマン』で、ファーストネームを「ジョゼフ」ではなく「ジョン」と記載していたが、これは1864年4月21日に生まれの弟ジョンと混同した誤植だという。

 

ジョゼフの見世物興行にあわせて1884年に出版された小冊子『ジョゼフ・ケアリー・メリックの自伝』によれば、畸形症状は5歳ぐらいのときに現れており「しわくちゃのしこりのある肌、それはまるで象のような色」と記載されている。

 

1930年に発行された新聞『イラスト・レイサー・クロニクル』の記事によれば、生後21ヶ月で、まず唇が腫れはじめ、続いて額にこぶができ、肌がゆるんで荒れ出したと記載されている。

 

ジョゼフは成長するにつれ、左右の腕の大きさに顕著な差異が現れ、両足は著しく肥大化。メリック一家は息子の症状について、母メアリーが妊娠しているときにサーカスで見た象にびっくりして怯えたことが原因であると説明している。

 

胎内感応概念、つまり妊娠中の女性が感じた経験は生まれる子どもの身体に影響が現れるという学説は、19世紀当時のイギリス社会一般に浸透していた迷信だった。メリックは生涯自身の病気の原因は胎内感応であると信じていた

 

畸形の病気にくわえ、幼年期にメリックは転倒で左腰を負傷している。このときの傷はほかの場所へ二次感染し、歩行困難となる原因にもなった。

 

身体的な畸形による影響はあったがメリックは他の子どもたちと同じ学校へ通い、母親とは親密な関係を育んでいた。母親は日曜学校の先生で、父は紳士用衣服事業を経営し、また綿織物工場で技師として働いていた。

 

1873年5月29日、弟のウィアリムの死後3年足らずで母親が気管支肺炎で亡くなる。

 

父ジョゼフ・ロックリー・メリックは2人の子どもを連れて、未亡人でシングルマザーのエマ・ウッド・アンティルと同棲をはじめる。2人は1874年12月3日に結婚した。

※2:1889年のメリックの肖像写真
※2:1889年のメリックの肖像写真

ジョゼフの仕事


メリックは13歳で退学する。ここまではほかの子どもたちと同様にごく普通に生活できていたが、これ以降はひたすら悲惨な人生となる。父親も継母もメリックに愛情を示すことはなかった。メリックは2、3度家出をこころみたが、毎回父親に連れ戻された。

 

13歳のときにメリックは煙草製造の工場に勤めるが、3年後には右手の変形の悪化で仕事をするのに必要が道具が持てなくなってしまい離職する。失業後、しばらく次の職を探しつつ、継母に対する煩わしさを避けるため自宅にはあまり滞在せず、路上をさまよいながら日々を過ごしたという。

 

このころ、メリック一家の家計が増えはじめたこともあり、父は少しでもお金を工面するためジョゼフに雑貨の訪問販売資格証を与え、働かせようとする。

 

しかし、メリックの顔面の変形は年々すひどくなり、二次障害で何を言っているのかもわからないほどの言語障害が生じ、とてもセールストークできる状態ではなかった。さらに、得意先の客はメリックの容貌に恐怖を示すようになり仕事どころではなかった

 

主婦たちはジョゼフが訪問しに来ると、怖がってドアを開こうとしなかった。周囲の人たちは彼をじろじろ見るだけでなく、好奇心から彼の後をつけはじめた。結局、メリックは営業仕事はうまくいかなかった。

 

1877年のある日帰宅すると、メリックは父親にひどく殴打され、以後家から出ることになった。

 

 

家を追い出されたメリックはレスターの通りでしばらくホームレスとなって生活する。叔父で理髪師だったチャールズ・メリックがメリックの状況を聞きつけ、通りで彼を探し出し、自宅に宿泊させることになった。

 

メリックはその後2年間、レスター周辺で仕事を探し、ロンドン・タクシー会社に就職したものの、その醜い外観は一般の人々にネガティブな印象を与えたため、契約更新時に離職することになった。

 

また、叔父チャールズには幼い子どもがいたため、甥まで面倒を見る経済的余裕がなくなり、1879年12月下旬、17歳のときにメリックはレスター救貧院に入院する。

 

メリックは救貧院に住む1,180人の中の1人となった。住居とする場所は救貧院のクラス・システムで決められており、ジョゼフは有能な男女クラスに分類されることになった。

 

1880年3月22日、入居から12週間して、メリックは自らの意思で救貧院を出て、2日間仕事を探して過ごすが、結局仕事は見つからず救貧院に戻る以外に選択肢がないことに落胆する。その後、約4年間救貧院で過ごすことになった。

 

1882年ごろ、メリックは顔の手術を受ける。口から突出した腫瘍は8〜9インチにまで達し、話すことや食事も困難になりはじめていた。メリックは医師クレメント・フレデリック・ブライアン担当のもと作業室診療所で手術を受け、腫瘍の大部分を除去した。

※3:1888年のメリックの肖像写真
※3:1888年のメリックの肖像写真

「エレファント・マン」見世物芸人として


メリックは救貧院から抜け出せる唯一の方法として見世物業界に入ることを思いつく

 

メリックはサム・トーというレイサー・ミュージックホールのコメディアンで経営者に手紙で救貧院に訪問してくれないかコンタクトをとった。

 

その後、救貧院を訪れてメリックと面会したトーは、彼が見世物芸人として成功することを確信する。ただし、メリックに対する一般庶民の好奇心を誘うには、巡業形式にする必要があると思い、その巡業を運営・管理するためにミュージックホール経営者のJ・エリス、巡回興行師のジョルジュ・ヒッチコック、フェアオーナーのサム・ローパーらとともに管理組織を設立した。

 

こうして1884年8月3日、メリックは救貧院から退院し、見世物芸人として新しい生活がはじまった。

 

興行師たちはメリックに「エレファント・マン」という芸名を付け、「半分は人間で、半分は象でできた男」というキャッチで宣伝を行った。

 

興行師たちはレスター、やノッティンガム、イースト・ミッドランズ周辺で興行を行い、その後冬季になるとロンドンで興行を行った。メリックはおそらくエリス所有の演芸ホール「ザ・リビング」で初舞台を踏み、その後は近隣のいくつかの都市を巡演したものと考えられている。

ロンドン興行


ジョルジュ・ヒッチコックは、知り合いでロンドンのイースト・エンドで名珍品を展示するペニーグラフを経営していた興行師のトム・ノーマンに、メリックのロンドンでのマネジメント依頼を行う。

 

直接の面会なしで、ノーマンはロンドンでのマネジメント事業の引き継ぎに合意し、11月にヒッチコックはメリックともにロンドンを赴いた。

 

トム・ノーマンは初めてメリックに会ったとき、そのメリックの畸形のひどさにひどく驚き、そのあまりのおぞましさはきっと興行を成功へ導くだろうと感じたという。

 

しかし、ノーマンはパニックに発展するのを恐れてか、ホワイトチャペル・ロードにある空家となった店の後方に彼を隠すように展示した。メリックのプライバシーを保護するために周囲にはカーテンがひかれ、ベッドも用意された。

 

ノーマンはある朝、メリックが膝を抱えて座った状態で眠ていたのを見て、横になることができないと理解した。メリックの頭は肥大化し過ぎ、メリックによれば「無理に横になると首が折れて目を覚ましてしまう」という危険性があったという。

 

ノーマンはヒッチコックが作成した「半分は人間で、半分は象でできた男」というキャッチの入りのポスターを店内に貼り付けて宣伝を行った。また『ジョセフ・ケアリー・メリックの自伝』というタイトルのパンフレットが作成され、現在にいたるまでのメリックの生涯の概要が説明された。

 

そのパンフレットには、彼の奇形が「彼の母親が彼を妊娠中、五月祭で町を訪れた移動動物園のパレードを見物しに行ったところ、誤って行進して来た象の足元に転倒、強い恐怖を味わったことが原因」だと書かれていた。

 

この伝記はメリック自身が書いたものかどうかわからなかったが、彼のプロフィールが記載された公式のガイドブックとなった。ただし、生年月日やいくつか間違いもあったので、生涯を通してメリックの幼少時に関することは曖昧なままとなった。

※4:ホワイトチャペル・ロードにあるメリックが展示された店。現在はサリーが販売されている。
※4:ホワイトチャペル・ロードにあるメリックが展示された店。現在はサリーが販売されている。

外科医フレデリック・トレヴィスとの出会い


ノーマンは店の外に立ち、興行師ならではの口上でエレファント・マンを宣伝して人々を呼び集めた。その後、興味を持った見物人たちを店に連れていき、彼を見ると多くの人々は怖がるのでカーテンの奥にいることを説明し、近くで見たい人だけメリックを鑑賞できるようにした。

 

エレファント・マンの見世物はそこそこ成功し、また自伝が書かれたパンフレットがよく売れた。メリックはノーマンから見世物の利益の分け前を十分に貰い受けたこもあり、ある日、自分の家を購入するために見世物芸人として精一杯働こうと考えた。

 

ホワイトチャペル・ロードにある店は、ちょうどロンドン病院の向かい側にあったこともあり、噂を聞きつけた医学生や医者たちがたくさんメリックを見るために店を訪れた。

 

その中の1人にレジナルド・タッケットという若い研修外科医がいた。タッケットはエレファント・マンの畸形に興味を持ち、先輩で同僚のフレデリック・トレヴィスにこの事を話した。

※5:ジョゼフの親しい友人でもあった医師フレデリック・トレヴェス(1884年)
※5:ジョゼフの親しい友人でもあった医師フレデリック・トレヴェス(1884年)

ノーマンが店を開く前、11月にフレデリック・トレヴィスはプライベートで初めてメリックのもとに訪れ、診察をした。

 

トレヴィスは、のち1923年に刊行した『随想録』で「メリックは私が今まで診察した中で最もひどい症状の患者だった。メリックのような腐敗したようにひどく変形した畸形を診察したことはなかった」と回想している。

 

診察は15分程度でおわり、その後、トレヴィスはいったん仕事に戻ったが、その日の晩の遅くにタッケットを店へ使いにだし、精密な検査のため一度病院に来てもらえるかどうか尋ねた。ノーマンとメリックは同意した。

 

一般庶民の目に触れず素早く病院に移動できるよう、メリックは大きな黒いマントと茶色の帽子と食物を入れる麻布で全身を覆い隠した状態で、トレヴィスが手配したタクシーで病院へ来訪した。

 

病院でトレヴィスはメリックを診察したが、当時の状況について「メリックはシャイで、混乱している状況で、少し怖がっていて、脅えていた」と話している。

 

当時、トレヴィスはエレファント・マンは何を話しているのかわからなかったため知的障害だと誤認していた。

 

上唇から突出した象の鼻状の皮膚組織が一時は20センチ近くに達し、救貧院時代の1882年に、一度、口の矯正手術をしたにもかかわらず、発音がうまくいかず、メリックが話す事はほとんどわからなかった。このことが原因で当初、メリックは知的障害だと思われていた。

 

身体測定を行うと、頭の周囲は36インチ(91cm)、右の手首の周りは12インチ(30cm)、指は5インチ(13cm)あった。肌は乳頭状(いぼ)の腫瘍が広がっており、特にひどい部分からは嫌な臭いが染み出していた。

 

また、皮膚組織の低下が原因で弛んで、皮膚が部分的に身体から垂れ下がった状態になっていた。身体の変形で特にひどいの部分は右腕、両足、最もひどいのは頭蓋骨の大きな変形だった。

 

左腕と左手は大きくはなく正常で変形も見られなかった。陰茎と陰嚢も正常だった。脊柱も湾曲しており、歩行には杖が必要だったがそのほかは全体的には正常だった。

 

原因については当時から、レックリングハウゼン病などとして知られる神経線維腫症1型、また俗には象皮病と結びつけて考えられてきたが、近年では特定の遺伝的疾患群をさすプロテウス症候群とする見方が有力である。

 

ノーマンはのちに2〜3度検査のために病院に行き、診察時にメリックはトレヴィスから名刺を受け取ったと回想している。

 

ある診察の日、トレヴィスはメリックの写真を撮影し、のちに自伝パンフレットに追加で掲載されるようになる一連の全身写真のコピーをメリックに渡した。

 

12月2日、トレヴィスはブルームズベリーで開催されたロンドン病理学会でメリックの事を紹介する。その後、メリックはノーマンにこれ以上診察を受けたくないと話した。ノーマンによれば、「裸にされ、牛市場の動物のように感じられた」と話し、病院を嫌がっていた。

 

また、ビクトリア朝イギリスではこのころに、エレファント・マンのようなフリークショーの展示会に関する世論が変化しはじめた。ノーマンが開催しているような見世物は、良識の根拠に欠ける点と群衆によって発生する混乱の両方の理由から、社会的関心の1つとして取り上げられるようになった。

 

フレデリック・トレヴィスの最期の診察からまもなく、警察はホワイトチャペル・ロードにあるノーマンの店を強制閉鎖し、レスターにおけるメリックのマネジメント権をノーマンから取り上げた。

ヨーロッパ巡業の失敗とロンドンへの帰還


1885年にメリックはサム・ローパーの巡業興行に参加する。彼はそこで"ローパーの小人"と呼ばれたバートラム・ドゥーリーやハリー・ブラムリーらと親しくなった。彼らはときどき一般市民らのメリックに対する嫌がらせから守ってくれた。

 

しかし、フリークショーや奇人に対する一般市民たちの関心は低下し、公序良俗に反するものとして敗訴する風潮が強まり、警察や治安判事たちのフリークショーに対して閉鎖命令がくだされた。

 

一般市民にとってメリックの存在は「おぞましいもの」という印象だけが残り、また興行師のローパーはエレファント・マンに関する地方自治体からのネガティブな呼びかけにナーバスになりはじめた。

 

そこで、メリックをマネジメントしている組織は、当局がメリックに寛容になるには海外で評価を高めるのが良いと考え、ヨーロッパ大陸での巡業を行うことにする。

 

ヨーロッパ大陸でのマネジメントは、よく知らない男(おそらくフェラーリというオーストリア人興行師)に売却されたあと、メリックはヨーロッパへ移る。しかし、興行はイギリスに比べてまったくといっていいほど振るわず、さらに、イギリス同様、各国当局も興行に対して閉鎖命令がくだされた。

 

1886年・メリック26歳の時、オーストリア人興行師はジョゼフの商品価値を見限るにいたり、メリックが所持していた50ポンド(現在の価値で約80万)を略奪してベルギー・ブリュッセルで彼を放棄。

 

メリックはわずかな身の回りの品を質に入れて旅費を捻出し、まずはブリュッセルからオステンデまでを列車で移動し、そこでフェリーに乗ってドーバー海峡にわたろうとしたが搭乗拒否にあう。しかたなく、アントワープへ移りそこから船にのってエセックスのハリッジに上陸する。再び鉄道を利用して1886年6月24日ロンドン・リバプールストリート駅に到着した。

 

ロンドンに到着したものの一文無しで帰る場所のないメリックは、行き交う人々に助けを求めるが何を言っているのかわからなかったためただ不審がられるだけだった。

 

警察官がメリックを見つけて空き部屋にかくまってくれるまで、好奇心を持った人々がメリックの周囲に集まりはじめた。唯一所持していたトレヴェスの名刺を手がかりに彼に警察に保護を要請する。

 

警察がトレヴィスに連絡を取ると、トレヴィスは駅まで迎えにきて、タクシーでロンドン病院に連れて帰った。

 

病院に戻ったメリックは風呂に入り身体の汚れを取り除き、空腹を満たしたあと、病院の屋根裏部屋の小さな隔離室で寝ることになった。なお、入院当時のメリックは気管支炎を患っていたという。

ロンドン病院


メリックが病院に入院することになったため、トレヴィスは以前より緻密な検査をするための時間ができた。トレヴィスはメリックの体調がここ2年で悪化していたこと、また悪化に伴い畸形が進行して身体がかなり不自由になったことがわかった。

 

さらに、トレヴィスはメリックが心臓病を患っており、余命がたった2〜3数年であるかもしれないと推測した。

 

メリックの一般的な健康状態は、病院職人の看護の甲斐もあって入院後5ヶ月で回復した。看護婦の中には当初、彼の容貌に恐れ看護を嫌がるものもいたが、時間の経過とともに克服し、みんな看護を行うようになった。

 

身体から漂う不快な体臭は、毎日入浴することで軽減され、トレヴィスは徐々にメリックの会話が理解できるようになった。

 

その後、メリックの長期看護問題に関して対応する必要に迫られた。病院委員会の委員長であるフランシス・キャリー・ガムは、トレヴィスによる院内でメリックの看護を支持していたが、11月までに長期計画を立てる必要があった。

 

ロンドン病院には、メリックのような難病の長期治療を行うための設備が整っておらず、スタッフも不足していた。

 

キャリー・ガムは慢性的な症例の看護に適した他の施設や病院へ連絡をとったが、メリックを受け入れてはもらえなかった。ガムは12月4日に発行された新聞『タイムズ』に手紙で、メリックの症状の概要を説明し、読者に助言を求めた。

 

そのなかでカー・ゴムは、メリックはその容貌ゆえに就業は不可能であり、よって経済的自立も出来ない。また一般の患者と一緒に療養させることも、ほかの患者に与える影響を考えればやはり避けるべきである。また本人は救貧院を非常に強く忌避している、といった事情を説明し、メリックを居住させるための個室の設置と、今後の彼の生活のための資金の寄付を求めた。

 

その後、よる世論の反響は大きく手紙や寄付が多数寄せられた。イギリス医療ジャーナルでも取り上げられ、地方紙でもメリックの今後に関する記事が掲載された。

 

多くの支援者からの財政的支援を受けたことで、ガムは病院でメリックをメリックを長期的に看護する根拠のある口実を作ることができ、残りの生涯をずっとロンドン病院で過ごす許可がおりた。

 

メリックは屋根裏部屋から小さな中庭に面した大小二つの地下室がメリックの住居として改装された。大きい方の部屋は居間兼寝室として、ベッドやテーブル、数脚の椅子、小さな暖炉が備えられ、小さいほうのもう一部屋は浴室となった。そしてトレヴェスの方針により、どちらの部屋にも鏡は一つも設置されなかった。

落ち着いたロンドン病院での生活


メリックはロンドン病院で落ち着いた新しい人生を送ることになった。

 

トレヴィスは毎日彼を訪問し、毎週日曜日には数時間メリックと過ごした。メリックは自分の言葉を理解できる人が見つかったこともあり、トレヴィスとは喜んで長時間の談笑を楽しんだ。

 

トレヴィスとメリックは友好的な関係を築き上げたが、メリックは決して私事を打ち明けることはなかったという。メリックはトレヴィスに対して一人っ子であると話していた。トレヴィスはメリックがいつも所持していた母親の写真から、赤ん坊のときに捨てられたと思っていたという。

 

当初、メリックがうまく話せないことから知的障害かとトレヴィスは思っていたが、長くコミュニケーションを取るうちに、ごく普通の知性の持つ男性であることがわかりはじめた。

 

メリックは非常にセンシティブで、すぐに感情的になった。トレヴィスによれば病院生活のメリックは退屈そうで、孤独なこともあって、うつ病の兆候も見えたという。

 

メリックは成人以後の生涯を通して女性から隔離して過ごした。彼と出会った女性たちはすべからく彼の容貌を見るやいなや脅えて逃げた。そのため、女性に関するメリックの知識は、自身の母親と読書からしか得られなかった。

 

メリックは女性を紹介してもらいたいと思っており、また、それがメリックの憂鬱を解消させる手段であるとトレヴィスは理解する。トレヴィスは友人で「若くてかわいい未亡人」の友人のレイラ・マテュリン夫人をメリックに紹介することにした。

 

彼女はメリットの会合に同意したが、トレヴィスは彼の姿に脅えないよう、前もって注意深く警告してから、メリックの部屋に彼女を連れていった。

 

会合時間は短かったが、メリックはすぐに元気になった。マテュリンは人生で初めて私に微笑んでくれた女性であり、初めて握手をしてくれた女性だったという。

 

彼女とメリックは以後も手紙を通して親交を続けた。彼女から贈られた本やライチョウの装具の感謝としてメリック自身が書いた手紙があるが、これが唯一現存するメリックの手記である。

 

彼女と出会ったことは、簡潔ではあるが、メリックの対人恐怖の解消に大きな役割を果たし、彼に自身を与えた。病院での生活の間に他の女性とも会うようになった。また、メリックの希望は盲人施設に住むことだとトレヴィスは理解した。盲人施設の女性であれば彼の姿を見て怖がる人はいないからだった。

唯一現存するメリックの手紙。
唯一現存するメリックの手紙。

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