【世界のシリアルキラー】ゲンナディ・ミハセビッチ「自身の捜査にも参加したソ連の連続殺人鬼」

ゲンナディ・ミハセビッチ / Gennady Mikhasevich

自身の捜査にも参加したソ連の連続殺人鬼


概要


生年月日 1947年4月7日
活動国 ソビエト
確定犠牲者 33
推定犠牲死者 43–55+
活動期間 1971-1985

ゲンナディ・モデストヴィッチ・ミハセビッチ(1947年4月7日-1987年9月25日)はソビエトの連続殺人犯。彼は1971年から1985年までの間に、ビテブスク、ポロツク、およびビエロロシア社会主義共和国(ベラルーシ)の近隣地域の農村部で33人の女性を殺害した。

殺害


ゲンナディ・ミハセビッチは、1947年にイスト(ヴィテブスク州)の村で生まれ、陸軍に従軍した。1971年5月に初めて殺人を犯す。殺人をはじめたきっかけはガールフレンドからふられ、ガールフレンドが別の男と結婚していたことである。

 

1971年5月14日の夜、ガールフレンドにふられて落胆していたミハセビッチはヴィテプスクからポロツクに歩いて向かっていた。遅い時間だったので、実家のあるポロツクまでのバスに乗れなかった。

 

ミハセビッチは、落ち込み首を吊るための縄を所持していたという。しかし、道中、偶然にも若い女性に遭遇し、そこで衝動的に怒りを発散させるため彼女を殺してしまう。殺人欲求はここから始まった。

 

1971年10月に再び殺害し、1972年にはヴィテブスク近郊で他の2人の女性を絞殺。

 

1973年にヴィテブスクの専門学校を卒業し、イストに戻り、ソフホーズで働き始める。1976年に結婚。その間にも殺人は続けていた。

手法


彼の殺人の多くは、レイプ目的で行われていた。常に被害者の首を絞めたり、窒息させていた。所有している赤いザポロージェツ車や職場の工場(後に機械修理の仕事に就いていた)に誘い込んだ後、被害者を殺した。

 

ミハセビッチは武器は持たず、ライ麦で作った紐などその場にあるありあわせで作った道具で人を殺した。被害者から金品や貴重品を奪うこともあった。その中には後に妻にプレゼントしたこともあるという。また、ハサミのようなありふれた日用品も奪っていた。

捜査


ジェンナディ・ミハセビッチは、外見は良家で二人の子供がいる真面目な労働者だった。また、共産党(地方の党員も務めていた)と自警組織ドルジーナのメンバーでもあった。

 

1980年代に入ってから、若手調査員のニコライ・イグナトヴィッチが、この地域の高速道路付近で起きている女性の殺害は、個別の事件ではなく連続殺人犯という一人の人物によって行われたものであると確信したことから、調査は進みはじめた。

 

警察は、連続殺人犯が赤いザポロージェツ車を使用していたことを疑っていた。そのような車を所有していた州のすべての人々を調べ始め、ミハセビッチ自身もドルジーナとして捜査に参加した。

 

ミハセビッチ自身が捜査に参加したことは、警察の捜査手順を事前に知ることができるのに役立った。捜査を振り切るためミハセビッチ自身も殺害計画を変更するようになった。1985年は特に多くの事件を起こし、この年だけで12人の女性を殺害した。

 

しかし、ミハセビッチは致命的なミスを犯した。調査をかく乱させるために、反共産主義の架空の地下組織「ヴィテブスクの愛国者」を作り、その組織を代表して地元の新聞に匿名の手紙を送り、仲間の過激派たちに「共産主義者と淫らな女性を殺す闘争を激化させるよう」呼びかけた。

 

そして、殺害した被害者の横に「ヴィテブスクの愛国者」のサインを入れた同じような手書きのメモを残し、殺人を架空の地下組織の仕業にしようとしたのだった。

 

そこで、調査員は州の男性住民の筆跡を確認し始めた。556,000個のサンプルを調べた結果、ミハセビッチの筆跡が、殺人犯のメモの筆跡と酷似していることが判明した。さらに調査を続けた結果、他の証拠も明らかになり、警察はミハセビッチが犯人であることを確信した。

逮捕、処刑


彼は1985年12月に逮捕され最初は否認していたが、自白し、1987年に死刑判決を受け、銃殺刑に処された。

 

なお、ミハセビッチが最終的に逮捕されまでに、濡れ衣を着せられた人が14人もおり、彼らは有罪判決を受け、しばしば拷問で自白を迫られ、その中の何人かは無罪のまま死刑判決を受け、死刑になっていたという。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Gennady_Mikhasevich、2020年6月29日アクセス