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【世界の殺人犯】チャールズ・マンソン「"キング・オブ・カルト"米国で最も尊敬される殺人犯」

チャールズ・マンソン / Charles Manson

「キング・オブ・カルト」米国で最も尊敬される殺人犯


1968年8月のある夜、シャロン・テートほか4名がロサンゼルスで殺害された。24時間後には、そのすぐ近くで新たに2名が殺害された。逮捕されたのはチャールズ・マンソンと彼が組織するヒッピー・コミューン「マンソン・ファミリー」のメンバーたちだった。マンソン、そして彼の信奉者たちを狂気の犯行に駆り立てたのは何だろうか。チャールズ・マンソンという人物の人生を通して、その実像に迫る。

概要


生年月日 1934年11月12日
死没月日 2017年11月19日
国籍 アメリカ
職業 シンガーソングライター

チャールズ・ミルズ・マンソン(1934年11月12日-2017年11月19日)は、アメリカの犯罪者、カルト教団の指導者。「キング・オブ・カルト」。米国で最も尊敬される殺人犯。西の麻原彰晃

 

1967年半ばにカリフォルニア州を拠点とする準共同体「マンソン・ファミリー」と知られるようなったものを結成した。

 

1967年にサンフランシスコにやってきたマンソンは、すでに人生の半分以上を刑務所などの矯正施設で過ごしていた。サンフランシスコではじめて、彼は若者、とりわけ若く犯罪歴のない中流家庭出身の女性に対してカリスマ的魅力があることを自覚した。

 

マンソンは彼ら彼女らにドラッグとセックスを与えて洗脳し、さまざまな指図をするようになった。最初はLSDの錠剤によって、次は何時間ものセックスによってであった。

 

マンソンの信奉者たちは、マンソンの命令に従って1969年7月から8月にかけて、4つの場所で9人の連続殺人を犯した。ロサンゼルス郡の地方検事によると、マンソンは人種戦争を企てたが、その動機についてはマンソンらも異議を唱えている。

 

1971年、映画女優シャロン・テイトを含む7人が死亡した事件で、第一級殺人罪と殺人共謀罪で有罪判決を受けた。検察側は、マンソンが本気で殺人を命じたわけではないことは認めたが、彼の思想は明白に共謀行為に等しい主張した。マンソンはゲイリー・ヒンマンとドナルド・シアの死で第一級殺人罪で有罪判決を受けた。

 

殺人事件を起こす前、彼は主にビーチ・ボーイズのデニス・ウィルソンとの偶然の出会いをきっかけに、ロサンゼルスの音楽業界の片隅でシンガーソングライターとして活動していた。1968年にビーチ・ボーイズはマンソンの曲「Cease to Exist」を作詞・作曲している。 シングルのB面を「Never Learn Not to Love」に改題したが、マンソンはクレジットされていない。

 

ロサンゼルス地方検事は、マンソンはビートルズ、特に1968年のセルフタイトルアルバムに夢中になっていたと話している。彼はビートルズの歌詞の解釈に導かれていると話しており、差し迫った終末的な人種戦争を表現するために「ヘルタースケルター」という言葉を使い始めた麻原の「ハルマゲドン」思想のようなものである。

 

裁判で検察側は、マンソンとその信者は、殺人が戦争を促進させると信じていたと主張した。

 

他の現代のインタビューやマンソンの裁判の刑罰段階で証言した人々は、テート・ラ・ビアンカの殺人はマンソンの友人ボビー・ボーソレイユの容疑を晴らすための模倣犯であると主張している。

 

マンソンの悪名が世間に知れ渡るようになると、彼の周りにポップカルチャーが発生し、彼は狂気、暴力、不気味さの象徴として扱われるようになった。『Lie: The Love and Terror Cult』(1970年)を皮切りに、マンソンが作詞・演奏した曲のレコーディングが商業的にリリースされた。様々なミュージシャンが彼の曲のいくつかをカバーしている。

 

マンソンはもともと死刑判決を受けていたが、1972年にカリフォルニア州の最高裁が州の死刑法を無効にした後、終身刑に減刑され、仮釈放の可能性もあった。

 

カリフォルニア州刑務所のコーコランで終身刑を受け、2017年末に83歳で死去した。

略歴


幼少期


チャールズ・マンソンは1934年11月12日、オハイオ州シンシナティのシンシナティ大学学術保健センターで、16歳の母キャスリーン・マンソン=バウワー=カベンダー・ニー・マドックス(1918-1973)の子どもとして生まれた。最初は「名もなきマドックス」と名付けられた。数週間のうちに、彼はチャールズ・ミレス・マドックスと呼ばれるようになった。

 

マンソンの実父はケンタッキー州カトレッツバーグのウォーカー・ヘンダーソン・スコット・シニア大佐(1910-1954)で、キャスリーン・マドックスが父子関係訴訟を起こし、1937年に合意判決が下された。マンソンは彼の実父を知ることはなかったかもしれない。

 

スコットは断続的に地元の工場で働き、詐欺師としても地元で評判になっていた。彼はマドックスに自分が陸軍の大佐であると信じ込ませたが、「大佐」は単に自称に過ぎなかった。

 

マドックスがスコットに妊娠していることを伝えると、スコットは、彼が陸軍の仕事で呼び出されていたことを彼女に伝えたが、数ヶ月後、彼女は彼が戻るつもりがないことに気づいた。

 

マンソンが生まれる前の1934年8月、マドックスはクリーニング店の「労働者」だったウィリアム・ユージン・マンソン(1909-1961)と結婚した。マドックスは弟のルーサーとよく飲みに行き、複数のベビーシッターによくチャールズの面倒をみさせていた。

 

ウィリアムがマドックスの「重大なネグレクト」を懸念したため、1937年4月30日に2人は離婚した。チャールズはウィリアムの姓であるマンソンを名乗ることになった。

 

1939年8月1日、ルーサーとキャスリーン・マドックスは暴行と強盗で逮捕された。キャスリーンとルーサーにはそれぞれ5年と10年の禁固刑が言い渡された。

 

マンソンはウェストバージニア州マクメチェンの叔母と叔父の家に預けられた。 彼の母親は1942年に仮釈放された。マンソンは後に、彼女が刑務所から戻ってきてからの最初の数週間を、彼の人生の中で最も幸せな時間だったと話している。

 

マドックスが釈放された数週間後、マンソンの家族はウェストバージニア州チャールストンに引っ越した。そこはマンソンが不登校を繰り返し、母親が晩酌をしていた場所で知られている。

 

彼女は重窃盗で逮捕されたが、有罪判決を受けていない。その後、家族はインディアナポリスに移動し、マドックスは、アルコール依存症の会合を通じてルイスという名前のアルコール依存症(ファーストネームなし)と出会い、1943年8月に彼と結婚した。

初犯


マンソンはダイアン・ソーヤーとのインタビューで、9歳の時に学校に火をつけたと語っている。マンソンはまた、不登校や窃盗でも問題を起こした。

 

母親の再婚相手は、子どもを引き取ることを拒んだ。里親が不足していたので、1947年、マンソンは13歳の時に、インディアナ州テール・オートにあるカトリックの神父が運営する非行少年のための学校、「ギボー・スクール・フォー・ボーイズ」に入所した。母親はときおりここを訪ねては、「すぐに」一緒に暮らせるようにすると口にしたが、その約束が実現されることはなかった。

 

ギボーは厳格な学校で、些細な違反に対しても木のパドルか革の紐で殴られるような罰があった。マンソンはギボーから脱走して、森の中や橋の下などに寝泊まりした。

 

マンソンは母親のもとに逃亡し、1947年のクリスマスをマクメチェンの叔母と叔父の家で過ごした。 母親は彼をギボーに連れ戻したが、10か月後、彼はインディアナポリスに逃げ込んだ。

 

1948年、インディアナポリスでマンソンは食料品店に強盗に入ったのが最初の犯罪として知られている。最初の強盗は単に何か食べるものを探すためだった。しかし、マンソンはシガーボックスの中に100ドル以上のお金が入っているのを見つけ、そのお金を奪ってしまった。彼はその金でインディアナポリスのスキッドロウの部屋を借り、食料を購入した。

 

マンソンは一時、ウエスタン・ユニオンのメッセージ配達の仕事に就いて、更生しようとした。しかし、彼はすぐに軽窃盗で給料を補うようになった。結局、彼は捕まり、1949年に同情的な裁判官が彼をネブラスカ州オマハの少年施設ボーイズタウンに送った。

 

4日間ボーイズタウンで入所した後、彼と仲間の学生ブラッキー・ニールソンは銃を手に入れ、また車を盗む。彼らはピオリア、イリノイ州に住むニールソンの叔父の家に向かう途中に手に入れた武器で、2件の武装強盗を犯した。ニールソンの叔父はプロの泥棒で少年達が到着すると、2人を見習いとして雇ったと言われている。

 

マンソンは2週間後、ピオリアの店の夜間襲撃の件で逮捕された。その後彼は厳格な改革学校であるインディアナ・ボーイズ・スクールに送られた。

 

同校では他の生徒からマンソンが強姦された疑いもあり、また、何度も殴られたという。彼は18回も学校から逃げ出している。

 

学校でマンソンは後に「非常識なゲーム」と呼ばれる護身術を発明した。彼は物理的に自分自身を守ることができなかったとき、叫んだり、ニヤニヤしたり、腕を振ったりして、加害者に自分が狂人であることを認識させようとした。

 

脱走に何度も失敗した後、1951年2月に他の2人の少年と一緒に脱走に成功した。 脱走した3人は盗んだ車でカリフォルニアに向けて移動しながらガソリンスタンドを襲ったりしていた。結局、ユタ州で逮捕された。

 

州境を越えて盗んだ車を運転したという連邦犯罪のために、マンソンはワシントンD.C.の国立少年訓練学校に送られた。到着後、彼は適性検査を受け、文盲だが平均以上のIQ109を持っていると判断された。彼の犯罪事件は、積極的反社会性であると判断された。

初禁錮刑


精神科医の推薦により、マンソンは1951年10月に最小警備施設であるナチュラル・ブリッジ・オナー・キャンプに移送された。

 

叔母がマンソンを訪ね、責任者に彼を自分の家に住まわせ、仕事を探すのを手伝うと話した。マンソンは1952年2月に仮釈放の審問を受ける予定だった。

 

しかし、1月に少年にナイフを突きつけて強姦しているところを捕えらた。マンソンはバージニア州のピーターズバーグにある連邦少年院に移された。少年院で彼はさらに8つの重大な懲戒違反を犯した。そのうち3つは同性愛行為だった。

 

その後、オハイオ州チリコテの最高警備の少年院に移され、1955年11月の21歳の誕生日に釈放されるまでそこに留まることになった。素行の良さから、1954年5月に早期釈放され、マクメチェンにいる叔母と叔父と一緒に暮らすことになった。

 

1955年1月、マンソンはロザリー・ジーン・ウィリスという病院のウェイトレスと結婚。

 

マンソンは妊娠中の妻と一緒にオハイオ州で盗んだ車でロサンゼルスに到着してから約3ヶ月後の10月頃、州境を越えて車を持ち出したとして再び連邦犯罪で起訴された。

 

精神医学的評価の後、5年間の執行猶予が与えられた。しかし、フロリダ州で起こされた告訴でロサンゼルス公聴会に出廷しなかったため、1956年3月にインディアナポリスで逮捕された。執行猶予は取り消され、カリフォルニア州サンペドロのターミナルアイランドで3年の懲役を言い渡された。

 

マンソンが刑務所にいる間、ロザリーは息子チャールズ・マンソン・ジュニアを出産した。ターミナル・アイランドでの最初の1年間、マンソンはロザリーと母親の面会が許された。

 

1957年3月、妻との面会が途絶えた時、母親からロザリーが他の男と暮らしていると知らされた。

 

仮釈放の公聴会が予定されていた2週間も経たないうちに、マンソンは車を盗んで逃げようとした。彼には5年間の執行猶予が与えられ、仮釈放は却下された。

連邦矯正研究所ターミナルアイランドでの写真、1956年5月2日
連邦矯正研究所ターミナルアイランドでの写真、1956年5月2日

二回目の懲役


マンソンは1958年9月に5年間の仮釈放を受けたが、これはロザリーと離婚した年と同じ年だった。11月ころまでに、マンソンは16歳の少女のポン引きをしたり、裕福な両親を持つ少女から生活の援助を受けていた。

 

1959年9月、彼は郵便受けから盗んだと主張する偽造した米国財務省の小切手を現金化しようとした罪で有罪判決を受けた。後者の罪状は後に取り下げられた。

 

売春で逮捕歴のあるレオナという若い女性が、裁判所の前でマンソンとの間に「深く愛し合っていて、チャーリーが解放されたら結婚するだろう」という「涙ぐましい嘆願」をしたことで、彼は10年の執行猶予を受けた。

 

年が明ける前に、この女性はマンソンと結婚したが、おそらく彼女は彼に不利な証言はしんかったのだろう。

 

マンソンはレオナともう一人の女性を売春斡旋目的でニューメキシコに連れて行ったが、マン法違反で拘束され尋問を受けた。彼は釈放されたが、調査は終わっていないことがわかった。執行猶予に違反して姿を消したとき、ベンチ令状が発行された。

 

1960年4月、マン法違反で起訴された。売春をしていた女性の一人が逮捕された後、マンソンは6月にテキサス州ラレードで逮捕され、ロサンゼルスに戻された。小切手を使った罪での執行猶予に違反したため、10年の懲役刑を言い渡された。

 

1961年7月、マンソンはロサンゼルスの刑務所からワシントン州マクニール島にあるアメリカ合衆国の刑務所に移送された。

 

そこでバーカー・カーピス。ギャングのリーダーのアルビン・"クリーピー"・カーピスからギターを習い、また、ハリウッドのユニバーサル・スタジオのフィル・カウフマンという人物の連絡先をほかの受刑者から教えてもらう。

 

ジェフ・グインの2013年の伝記によると、マンソンの母親はマクニール島に収監されている間、彼の近くに住むためにワシントン州に移り住み、近くでウェイトレスとして働いていたという。

 

マン法の告発は取り下げられたものの、財務省の小切手を現金化しようとしたことは依然として連邦法違反であった。

 

マンソンの1961年9月の年次レビューでは、彼には「自分自身に注目してもらおうとする途方もない衝動」があったと書かれており、この観察は1964年9月にも反映されている。

 

1963年、レオナと離婚。その過程で、彼女はマンソンとの間にチャールズ・ルーサーという息子がいると主張している。有名な都市伝説によると、マンソンは1965年後半にモンキーズのオーディションに受けて、落選している。

 

1966年6月、マンソンは2度目のターミナル。アイランド送りとなった。1967年3月21日の釈放日まで32年間の半分以上を刑務所などで過ごすことになった。

 

これはおもに、彼が連邦法に違反する罪を犯したからである。連邦政府の判決は、同じ犯罪の多くに対して州の判決よりもはるかに厳しいものであり、今もそうである。

チャールズ・マンソンは1960年代前半から半ばにかけて、刑務所にいた時にギターを習っていた。
チャールズ・マンソンは1960年代前半から半ばにかけて、刑務所にいた時にギターを習っていた。

1967–1971: カルトの結成、殺人、裁判


カウンターカルチャーの時代


ターミナル・アイランド連邦刑務所から出た1967年3月21日、マンソンは32歳になっていた。彼が刑務所に入ったころと世の中はすっかりかわっていた。抑圧的で保守的な社会は、愛と平和の自分の好きなことのできる世界になっていた

 

「パンティーもブラジャーもつけていない若いかわいい女の来があたりをうろついて、セックスをせがむんだ。往来ではマリファナや幻覚ドラッグを手渡してくれる。これは俺がこれまでいたところとは違う、ありがた過ぎるくらいの世界だった。服役囚にとっては夢みたいな世界で、7年間も監獄に入っていた俺はこの世界をありがたく受け入れて、その世代と一緒に生きることにしたんだ」。のちにマンソンはコメントしている。

 

マンソンがターミナル・アイランドから出たとき、ポケットには30ドルしかなく、手にしていたのはギターだけだった。米国では国中の若者が沸き返っていて、マンソンの目的であるサンフランシスコだろうと、どこだろうと、盛んに活動していた。

 

あらゆる場所で彼らは当局に反抗して、大学を中退し、まっすぐな道を歩むことを拒み、体制を無視し、いわゆるカウンター・カルチャーを確立しようと模索していた。

 

体制のはみ出しものだったチャールズ・マンソンは、人生ではじめて自分の居場所を見つけた。マンソンのひねくれた価値観は彼らから歓迎され、認められ、受け入れられた。

 

マンソンはこの時期のことを次のように語っている。「俺たちは公園で寝泊まりし、道端で愛し合い、俺の髪の毛は少しばかり長くなり、音楽をやり始め、仲間は俺の音楽を好んで、俺に笑いかけて、両手で俺を抱きしめてくれた。俺はどう応えたらよいのかさえわからなかったが、とにかく夢中になっていた」

 

ギターを抱え、髪を伸ばし、流行の最先端をいくマンソンの姿は、サンフランシスコのハイト・アッシュバリーやカリフォルニア大学バークレー校のキャンパスでは馴染みとなった。

 

図書館の司書をしていたメアリー・ブルンナーが、マンソンと出会ったのもそんなときだった。数週間後、マンソンはフォルクスワーゲンのミニバスを手に入れ、メアリーと一緒にウエストコーストを南北に行き来する旅に出た。ロサンゼルスに出かけ、ロックのスーパースターになろうともくろんだ。

カルトの結成


マンソンは、主に若い女性を中心に、カリフォルニア州周辺から信者のグループ集め始めた。彼らは後にマンソン・ファミリーとして知られるようになった。マンソンのグループの中核的なメンバーは以下の通りである。

 

チャールズ・テックス・ワトソン(ミュージシャンで元俳優)、ロバート・ボーソレイユ(元ミュージシャンでポルノ俳優)、メアリー・ブルナー(元司書)、スーザン・アトキンス、リンダ・カサビアン、パトリシア・クレンウィンケル、レスリー・ヴァン・ホーテン

 

ベニス・ビーチで彼は、父親とけんかをしたばかりのリネット・フロムという、これもほっそりした赤毛の少女と出会った。マンソンは彼女をメアリーに引き会わせ、ファミリーの中心ができあがった。9月になると、社会に反感を抱いた裁判所職員パトリシア・クレンウィンケルが加わった。

 

マンソンはハーレムを作り上げようとしていた。バスもいっぱいに膨れ上がった10歳以上も年下の女たちは、この世で最高のパーティーに招待された。

 

彼が女たちを操る手段はアシッド(LSD=合成幻覚剤の一種)とセックスだった。マンソンは15、6年前に結婚して一時の父親となったこともあったが、彼が服役中に妻は息子を連れて彼のもとを去っていた。マンソンはセックスの力で他人をコントロールしていた。

 

ファミリーのメンバーが増えると、マンソンは乱交パーティを開いて女たちの肉体を芸術的に飾ってみたり、だれはだれそれに何々をしろなどと指図するようになった。ファミリーに加わった女たちは例外なくマンソンの洗礼を受けた。最初はLSDの錠剤によって、次は何時間ものセックスによってであった。

 

ファミリーの数が増えてくるとマンソンは中古のスクールバスを購入した。警察とのトラブルを避けるため、バスを黒く塗ってボディにハリウッド・フィルム・プロダクションと書き入れた。この黒いバスは近所で有名となった。マンソンは映画界やミュージック界の一角にでも割り込もうと考えはじめていた。

 

仲間になった人物の特徴


さらに仲間は増えていった。非行少女のスーザン・アトキンス、生まれた町を飛び出すためにバス運転手をだしに結婚し、ファミリーに加わった牧師の娘ルース・アン・ムーアハウスらである。

 

赤毛のダイアン・レークの両親はホッグ・ファーム・コミューンに加わったドロップアウト組だった。ボビー・ビューソレイルは、ケネス・ハンガーのアングラ映画『魔王復活』に主演したことのある、俳優兼ミュージシャンだった。

 

マンソンが、ビューソレイルを通じて知り合った中には、キティ・リュートシンガー、キャシー・シェア(ジプシー)、レスリー・バン・ホーテン、ゲイリー・ヒンマンなどがいた。チャールズ・テックス・ワトソンは元オールアメリカンの陸上選手であり、ビーチボーイズのデニス・ウイルソンを通じてマンソンと知り合った。

 

ウイルソンは彼らのライフスタイルに心酔し、実に気前のいい援助を施していた。彼はファミリーを家に泊め、食事をすすめ、自分の衣装をことごとく与えたのである。

 

1968年の中頃にはマンソン・ファミリーはほとんど完成していた。男1人に対して女は3人があてがわれた。ファミリーの規模があまりにも急激に拡大したため、スクールバスも用をなさなくなり、彼らはトパンガ・キャニオンの近くにそれぞれ小屋を立てて暮らしはじめた。

 

メアリー・ブルンナーは4月1日にマンソンの息子、バレンタイン・マイケルを出産した。スーザン・アトキンスもまもなく息子セゾゾゼ・ザドフラックを出産している。結婚を2度経験した若い母親リンダ・カサビアンとステファニー・シュララムが加わったところで、犯行の顔ぶれがそろった。

 

マンソンは自分と似たようなタイプの人間は周りにおかなかった。ファミリーの大多数は、簡単に洗脳できる年少者だった。多くは白人中流階級の娘であり、図書館員、事務員、学生、大学院生、教師などといった経歴のものだった。彼ら彼女はマンソンにとってはたやすい餌食だった。メンバーの中で犯罪歴のあったものは1人、スーザン・アトキンスだけだった。

牧場での生活


物質的な支援は、ファミリーのメンバーそれぞれがさまざまな形で提供していた。

 

 

1969年の7月までにチャールズ・マンソンとファミリーは、砂漠の外れで原始的なコミューンを営むようになっていた。ファミリーが根城にしたのは、チャッツワースに近いスパーン・ムービー牧場で、これよりもへき地にあり、近寄ることさえ難しいパナミント・バレーのバーカー牧場に引きこもることもあった。

 

サンドラグッドの知り合いであるサンディエゴの社交界の人物の紹介で、ファミリーはスパーン・ムービー牧場に移住し、ここで反体制カルチャーを標榜する世捨て人集団として生活を始めた

 

コミューンの人数は日々変動していたが、常に30人ないし35名の信奉者がおり、うち4分の3は女性で子どもが何人かいた。殺人事件を実行したのは、事件の2年前からマンソンに献身していたファミリーの中核メンバーである。

 

食料はスーパーマーケットが毎晩廃棄するものを集めてくるだけで、立派な食事が全員に行き渡ったし、牧場の仕事を手伝ったり、麻薬を回したり、クレジットカードや自動車を盗み、あるは「拝借」して暮らしていくことができた。

1970年当時のスパーン牧場。
1970年当時のスパーン牧場。
スパーンムービー牧場の裏手には小さな洞窟が存在していた。ファミリーは敵が襲ってきたときのための避難場所として利用していた。
スパーンムービー牧場の裏手には小さな洞窟が存在していた。ファミリーは敵が襲ってきたときのための避難場所として利用していた。

殺人


ヘルタースケルター


マンソン・ファミリーは、マンソンがアメリカの黒人人口とより大きな白人人口との間の終末的な人種戦争を予言しはじめたころに、終末カルト集団に発展した。

 

1968年後半、マンソンは、ビートルズがリリースしたホワイトアルバムから「ヘルタースケルター」という言葉を引用し、これから起こる人種戦争のことを「ヘルタースケルター」と名付けた

 

「ヘルタースケルター」という言葉の本来の意味は、イギリスでは見本市や遊園地に設置される螺旋式の大型すべり台アトラクションのことで、ビートルズも曲ではそのような意味合いで使っていたと思われる。

 

1969年8月初旬、マンソンは「ヘルタースケルター」計画を始めるように信者たちに奨励し、ロサンゼルスで殺人を犯した際に人種的動機があるかのように見せかけた。

 

マンソン・ファミリーは、1969年8月8日と9日に女優のシャロン・テイトら4人が自宅で殺害し、翌日にはレノとローズマリー・ラビアンカが殺害したことで全国的に有名になった。テキス・ワトソンと他の3人のメンバーは マンソンの指示の下でラビアンカの殺人を実行したとされている。

 

後の裁判で、マンソンが信者に対して明確に殺人を命じたことはないことが認められたが、彼の行動は第一級殺人と殺人の共謀の有罪判決とされた。マンソンは「豚」だとみなした人物を殺すことで人種戦争戦争を扇動し、それを黒人解放組織ブラックパンサー党の仕業に仕立て上げた。

 

ファミリーのメンバーは他にも暴行、窃盗、犯罪、ジェラルド・フォード大統領暗殺未遂などにも関与していた。マンソンは自分で誰かを殺害したり、殺害しようとしたことはないと考えられがちだが、彼が1969年7月1日に麻薬の売人バーナード・クロウを撃ったことを示唆する証拠がある。

最初の犠牲者


1969年7月25日、マンソン・ファミリーの最初の犠牲者となったのは、34歳の音楽教師ゲイリー・ヒンマンだった。ファミリーのメンバーであるボビー・ビューソレイル、メアリー・ブルンナー、セイディ・メイ・グラッツの3人が、ヒンマンの自宅に借金の取り立ての使いに出されたのが、そもそもの始まりだった。

 

3人はヒンマンを2時間にわたって詰問した。そしてついにビューソレイルがしびれを切らし、持っていた9口径レイダム・ピストルを抜いた。ビューソレイルは銃をグラッツに手渡すと、家宅捜索にかかった。ちょうどそのとき、ヒンマンが脱出を図り、グラッツともみあいになった。弾丸1発が発射され、キッチンを飛び回った末に流しのシンクの下に落下している。ビューソレイルは部屋に駆け戻ると、銃をひったくり、ヒンマンの頭を殴りつけた。

 

メンバーがマンソンに電話をかけると、マンソン自身とブルース・デイビスがヒンマン宅にやってきた。マンソンは短剣を取り出して、ヒンマンの耳を切り落とし、13cmほどの切り傷を負わせた。マンソンはビューソレイルに、金の隠し場所を探し、ヒンマンを牧場に連れ出すように言いつけ、2人の女に傷の手当を命じた。

 

メンバーはヒンマンを縛り上げ、暖炉の前の敷物の上に転がしたまま、家中をかき回した。その後、ブルンナーはヒンマンの切り傷をデンタル・フロスで縫い合わせ、包帯を巻くと、飲み物を与えている。ファミリーがヒンマンから得たものといえば、彼が所有する2台の車の登録証書に、ファミリーに譲渡する旨のサインを強いたことだけだった。

 

夜明けごろ、ヒンマンは窓際に駆け寄り、大声で助けを求めた。ビューソレイルはパニックに陥り、ナイフを取り出すとヒンマンの胸のあたりを2度突き、ヒンマンは血まみれになって息絶えた。3名は自分たちの指紋をすべて拭き取ると(ただしたった1つだけふきのこした)、証拠となりそうな地のついた布や包帯をひとまとめに括った。

 

だれかがヒンマンの血溜まりに指を浸し、その頭上の壁面に「駆け引き好きの豚野郎」と書き、別のだれかが下手くそな猫の手の絵(ブラック・パンサーのシンボル)を書きなぐった。

 

彼らはドアを全部ロックすると、窓枠を乗り越えてヒンマンの死体を運び出した。ヒンマンのフォルクスワーゲンで全員がスパーン牧場への帰途についた。

裁判


カリフォルニア州はマンソンをテイトとラビアンカの殺人事件の容疑で、また共謀者のレスリー・ヴァン・ホーテン、スーザン・アトキンス、パトリシア・クレンウィンケルらとともに告訴した。テックス・ワトソンも共謀者としてテキサスから身柄を引き渡された後、裁判にかけられた。

 

裁判は1970年7月15日に始まった。マンソンは、スパーン・ランチでの典型的な服装であるフリンジ付きのバックスキンを着て登場した。

 

1970年7月24日、証言の初日、マンソンは額に「X」の文字を彫って法廷に現れた。また、彼の信奉者たちは、マンソンからの「I have "X'd myself from your world」という声明を発表した。翌日、マンソンの共同被告人であるヴァン・ホーテン、アトキンス、クレンウィンケルも額に「X」の文字を彫って法廷に出廷した。

 

裁判中、マンソンと共同被告人は、証言を繰り返し妨害し、議事進行をからかった。被告人全員が何度も裁判から追い出され、裁判所内の別の部屋から証言を聞くことを余儀なくされた。

 

マンソン・ファミリーのメンバーは、裁判を混乱させるとして法廷から排除されたので、裁判中に法廷の外でキャンプを張り、ストリート上にずっとたむろしていた。信者の中には、頭に十字架を彫った者もいた。

 

裁判の間、マンソン一家のメンバーはサフランのローブを着て現れ、もしマンソンが有罪になったら、ベトナムの僧侶たちの戦争反対のように焼身自殺すると脅した。

額にXの文字が刻まれたパトリシア・クレンウィンケル(左)
額にXの文字が刻まれたパトリシア・クレンウィンケル(左)
1970年2月24日、シャロン・テイト殺人事件のパトリシア・クレンウィンケル被告の罪状認否のためにロサンゼルス司法会館に集まったチャールズ・マンソンの "家族 "のメンバーたち。
1970年2月24日、シャロン・テイト殺人事件のパトリシア・クレンウィンケル被告の罪状認否のためにロサンゼルス司法会館に集まったチャールズ・マンソンの "家族 "のメンバーたち。

1971–2017: 3回目の懲役


マンソンは1971年4月22日、アビゲイル・アン・フォルガー、ヴォイチェフ・フリコウスキー、スティーブン・アール・ペアレント、シャロン・テート・ポランスキー、ジェイ・セブリング、レノ&ローズマリー・ラビアンカの死に対して、第一級殺人罪7件と殺人共謀罪1件の容疑でロサンゼルス郡から州刑務所に収容された。

 

1972年に死刑が違憲と判断されたため、マンソンは仮釈放の可能性を考慮して終身刑に再宣告された。彼の最初の死刑判決は、1977年2月2日に終身刑に修正された。

 

1971年12月13日、マンソンは1969年7月25日にミュージシャンのゲイリー・ヒンマンが死亡した事件で、ロサンゼルス郡裁判所で第1級殺人罪の有罪判決を受けた。

 

彼はまた、1969年8月にドナルド・ジェローム "ショーティ"・シアが死亡した事件で第一級殺人罪で有罪判決を受けた。

 

マンソンは7年間の収監後、仮釈放を申請する資格があった。 1978年11月16日、彼の最初の仮釈放審問がヴァカヴィルのカリフォルニア医療施設で行われたが、彼の請願は却下された。



■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Charles_Manson、2020年7月11日アクセス

https://en.wikipedia.org/wiki/Manson_Family、2020年6月12日アクセス