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【世界の殺人犯】チャールズ・マンソン「"キング・オブ・カルト"米国で最も尊敬される殺人犯」

チャールズ・マンソン / Charles Manson

「キング・オブ・カルト」米国で最も尊敬される殺人犯


概要


生年月日 1934年11月12日
死没月日 2017年11月19日
国籍 アメリカ
職業 シンガーソングライター

チャールズ・ミルズ・マンソン(1934年11月12日-2017年11月19日)は、アメリカの犯罪者、カルト教団の指導者。「キング・オブ・カルト」。米国で最も尊敬される殺人犯。西の麻原彰晃

 

1967年半ばにカリフォルニア州を拠点とする準共同体「マンソン・ファミリー」と知られるようなったものを結成した。

 

マンソンの信奉者たちは1969年7月から8月にかけて、4つの場所で9人の連続殺人を犯した。ロサンゼルス郡の地方検事によると、マンソンは人種戦争を企てたが、その動機についてはマンソンらも異議を唱えている。

 

1971年、映画女優シャロン・テイトを含む7人が死亡した事件で、第一級殺人罪と殺人共謀罪で有罪判決を受けた。検察側は、マンソンが本気で殺人を命じたわけではないことは認めたが、彼の思想は明白に共謀行為に等しい主張した。マンソンはゲイリー・ヒンマンとドナルド・シアの死で第一級殺人罪で有罪判決を受けた。

 

マンソンは無職の元囚人で、彼がカルト的な支持者を集め始めた頃にはすでに人生の半分以上を矯正施設で過ごしていたという。

 

殺人事件を起こす前、彼は主にビーチ・ボーイズのデニス・ウィルソンとの偶然の出会いをきっかけに、ロサンゼルスの音楽業界の片隅でシンガーソングライターとして活動していた。1968年にビーチ・ボーイズはマンソンの曲「Cease to Exist」を作詞・作曲している。 シングルのB面を「Never Learn Not to Love」に改題したが、マンソンはクレジットされていない。

 

ロサンゼルス地方検事は、マンソンはビートルズ、特に1968年のセルフタイトルアルバムに夢中になっていたと話している。彼はビートルズの歌詞の解釈に導かれていると話しており、差し迫った終末的な人種戦争を表現するために「ヘルタースケルター」という言葉を使い始めた麻原の「ハルマゲドン」思想のようなものである。

 

裁判で検察側は、マンソンとその信者は、殺人が戦争を促進させると信じていたと主張した。

 

他の現代のインタビューやマンソンの裁判の刑罰段階で証言した人々は、テート・ラ・ビアンカの殺人はマンソンの友人ボビー・ボーソレイユの容疑を晴らすための模倣犯であると主張している。

 

マンソンの悪名が世間に知れ渡るようになると、彼の周りにポップカルチャーが発生し、彼は狂気、暴力、不気味さの象徴として扱われるようになった。『Lie: The Love and Terror Cult』(1970年)を皮切りに、マンソンが作詞・演奏した曲のレコーディングが商業的にリリースされた。様々なミュージシャンが彼の曲のいくつかをカバーしている。

 

マンソンはもともと死刑判決を受けていたが、1972年にカリフォルニア州の最高裁が州の死刑法を無効にした後、終身刑に減刑され、仮釈放の可能性もあった。

 

カリフォルニア州刑務所のコーコランで終身刑を受け、2017年末に83歳で死去した。

略歴


幼少期


チャールズ・マンソンは1934年11月12日、オハイオ州シンシナティのシンシナティ大学学術保健センターで、16歳の母キャスリーン・マンソン=バウワー=カベンダー・ニー・マドックス(1918-1973)の子どもとして生まれた。最初は「名もなきマドックス」と名付けられた。数週間のうちに、彼はチャールズ・ミレス・マドックスと呼ばれるようになった。

 

マンソンの実父はケンタッキー州カトレッツバーグのウォーカー・ヘンダーソン・スコット・シニア大佐(1910-1954)で、キャスリーン・マドックスが父子関係訴訟を起こし、1937年に合意判決が下された。マンソンは彼の実父を知ることはなかったかもしれない。

 

スコットは断続的に地元の工場で働き、詐欺師としても地元で評判になっていた。彼はマドックスに自分が陸軍の大佐であると信じ込ませたが、「大佐」は単に自称に過ぎなかった。

 

マドックスがスコットに妊娠していることを伝えると、スコットは、彼が陸軍の仕事で呼び出されていたことを彼女に伝えたが、数ヶ月後、彼女は彼が戻るつもりがないことに気づいた。

 

マンソンが生まれる前の1934年8月、マドックスはクリーニング店の「労働者」だったウィリアム・ユージン・マンソン(1909-1961)と結婚した。マドックスは弟のルーサーとよく飲みに行き、複数のベビーシッターによくチャールズの面倒をみさせていた。

 

ウィリアムがマドックスの「重大なネグレクト」を懸念したため、1937年4月30日に2人は離婚した。チャールズはウィリアムの姓であるマンソンを名乗ることになった。

 

1939年8月1日、ルーサーとキャスリーン・マドックスは暴行と強盗で逮捕された。キャスリーンとルーサーにはそれぞれ5年と10年の禁固刑が言い渡された。

 

マンソンはウェストバージニア州マクメチェンの叔母と叔父の家に預けられた。 彼の母親は1942年に仮釈放された。マンソンは後に、彼女が刑務所から戻ってきてからの最初の数週間を、彼の人生の中で最も幸せな時間だったと話している。

 

マドックスが釈放された数週間後、マンソンの家族はウェストバージニア州チャールストンに引っ越した。そこはマンソンが不登校を繰り返し、母親が晩酌をしていた場所で知られている。

 

彼女は重窃盗で逮捕されたが、有罪判決を受けていない。その後、家族はインディアナポリスに移動し、マドックスは、アルコール依存症の会合を通じてルイスという名前のアルコール依存症(ファーストネームなし)と出会い、1943年8月に彼と結婚した。

初犯


マンソンはダイアン・ソーヤーとのインタビューで、9歳の時に学校に火をつけたと語っている。マンソンはまた、不登校や窃盗でも問題を起こした。

 

母親の再婚相手は、子どもを引き取ることを拒んだ。里親が不足していたので、1947年、マンソンは13歳の時に、インディアナ州テール・オートにあるカトリックの神父が運営する非行少年のための学校、「ギボー・スクール・フォー・ボーイズ」に入所した。母親はときおりここを訪ねては、「すぐに」一緒に暮らせるようにすると口にしたが、その約束が実現されることはなかった。

 

ギボーは厳格な学校で、些細な違反に対しても木のパドルか革の紐で殴られるような罰があった。マンソンはギボーから脱走して、森の中や橋の下などに寝泊まりした。

 

マンソンは母親のもとに逃亡し、1947年のクリスマスをマクメチェンの叔母と叔父の家で過ごした。 母親は彼をギボーに連れ戻したが、10か月後、彼はインディアナポリスに逃げ込んだ。

 

1948年、インディアナポリスでマンソンは食料品店に強盗に入ったのが最初の犯罪として知られている。最初の強盗は単に何か食べるものを探すためだった。しかし、マンソンはシガーボックスの中に100ドル以上のお金が入っているのを見つけ、そのお金を奪ってしまった。彼はその金でインディアナポリスのスキッドロウの部屋を借り、食料を購入した。

 

マンソンは一時、ウエスタン・ユニオンのメッセージ配達の仕事に就いて、更生しようとした。しかし、彼はすぐに軽窃盗で給料を補うようになった。結局、彼は捕まり、1949年に同情的な裁判官が彼をネブラスカ州オマハの少年施設ボーイズタウンに送った。

 

4日間ボーイズタウンで入所した後、彼と仲間の学生ブラッキー・ニールソンは銃を手に入れ、また車を盗む。彼らはピオリア、イリノイ州に住むニールソンの叔父の家に向かう途中に手に入れた武器で、2件の武装強盗を犯した。ニールソンの叔父はプロの泥棒で少年達が到着すると、2人を見習いとして雇ったと言われている。

 

マンソンは2週間後、ピオリアの店の夜間襲撃の件で逮捕された。その後彼は厳格な改革学校であるインディアナ・ボーイズ・スクールに送られた。

 

同校では他の生徒からマンソンが強姦された疑いもあり、また、何度も殴られたという。彼は18回も学校から逃げ出している。

 

学校でマンソンは後に「非常識なゲーム」と呼ばれる護身術を発明した。彼は物理的に自分自身を守ることができなかったとき、叫んだり、ニヤニヤしたり、腕を振ったりして、加害者に自分が狂人であることを認識させようとした。

 

脱走に何度も失敗した後、1951年2月に他の2人の少年と一緒に脱走に成功した。 脱走した3人は盗んだ車でカリフォルニアに向けて移動しながらガソリンスタンドを襲ったりしていた。結局、ユタ州で逮捕された。

 

州境を越えて盗んだ車を運転したという連邦犯罪のために、マンソンはワシントンD.C.の国立少年訓練学校に送られた。到着後、彼は適性検査を受け、文盲だが平均以上のIQ109を持っていると判断された。彼の犯罪事件は、積極的反社会性であると判断された。

初禁錮刑


精神科医の推薦により、マンソンは1951年10月に最小警備施設であるナチュラル・ブリッジ・オナー・キャンプに移送された。

 

叔母がマンソンを訪ね、責任者に彼を自分の家に住まわせ、仕事を探すのを手伝うと話した。マンソンは1952年2月に仮釈放の審問を受ける予定だった。

 

しかし、1月に少年にナイフを突きつけて強姦しているところを捕えらた。マンソンはバージニア州のピーターズバーグにある連邦少年院に移された。少年院で彼はさらに8つの重大な懲戒違反を犯した。そのうち3つは同性愛行為だった。

 

その後、オハイオ州チリコテの最高警備の少年院に移され、1955年11月の21歳の誕生日に釈放されるまでそこに留まることになった。素行の良さから、1954年5月に早期釈放され、マクメチェンにいる叔母と叔父と一緒に暮らすことになった。

 

1955年1月、マンソンはロザリー・ジーン・ウィリスという病院のウェイトレスと結婚。

 

マンソンは妊娠中の妻と一緒にオハイオ州で盗んだ車でロサンゼルスに到着してから約3ヶ月後の10月頃、州境を越えて車を持ち出したとして再び連邦犯罪で起訴された。

 

精神医学的評価の後、5年間の執行猶予が与えられた。しかし、フロリダ州で起こされた告訴でロサンゼルス公聴会に出廷しなかったため、1956年3月にインディアナポリスで逮捕された。執行猶予は取り消され、カリフォルニア州サンペドロのターミナルアイランドで3年の懲役を言い渡された。

 

マンソンが刑務所にいる間、ロザリーは息子チャールズ・マンソン・ジュニアを出産した。ターミナル・アイランドでの最初の1年間、マンソンはロザリーと母親の面会が許された。

 

1957年3月、妻との面会が途絶えた時、母親からロザリーが他の男と暮らしていると知らされた。

 

仮釈放の公聴会が予定されていた2週間も経たないうちに、マンソンは車を盗んで逃げようとした。彼には5年間の執行猶予が与えられ、仮釈放は却下された。

連邦矯正研究所ターミナルアイランドでの写真、1956年5月2日
連邦矯正研究所ターミナルアイランドでの写真、1956年5月2日

二回目の懲役


マンソンは1958年9月に5年間の仮釈放を受けたが、これはロザリーと離婚した年と同じ年だった。11月ころまでに、マンソンは16歳の少女のポン引きをしたり、裕福な両親を持つ少女から生活の援助を受けていた。

 

1959年9月、彼は郵便受けから盗んだと主張する偽造した米国財務省の小切手を現金化しようとした罪で有罪判決を受けた。後者の罪状は後に取り下げられた。

 

売春で逮捕歴のあるレオナという若い女性が、裁判所の前でマンソンとの間に「深く愛し合っていて、チャーリーが解放されたら結婚するだろう」という「涙ぐましい嘆願」をしたことで、彼は10年の執行猶予を受けた。

 

年が明ける前に、この女性はマンソンと結婚したが、おそらく彼女は彼に不利な証言はしんかったのだろう。

 

マンソンはレオナともう一人の女性を売春斡旋目的でニューメキシコに連れて行ったが、マン法違反で拘束され尋問を受けた。彼は釈放されたが、調査は終わっていないことがわかった。執行猶予に違反して姿を消したとき、ベンチ令状が発行された。

 

1960年4月、マン法違反で起訴された。売春をしていた女性の一人が逮捕された後、マンソンは6月にテキサス州ラレードで逮捕され、ロサンゼルスに戻された。小切手を使った罪での執行猶予に違反したため、10年の懲役刑を言い渡された。

 

1961年7月、マンソンはロサンゼルスの刑務所からワシントン州マクニール島にあるアメリカ合衆国の刑務所に移送された。

 

そこでバーカー・カーピス。ギャングのリーダーのアルビン・"クリーピー"・カーピスからギターを習い、また、ハリウッドのユニバーサル・スタジオのフィル・カウフマンという人物の連絡先をほかの受刑者から教えてもらう。

 

ジェフ・グインの2013年の伝記によると、マンソンの母親はマクニール島に収監されている間、彼の近くに住むためにワシントン州に移り住み、近くでウェイトレスとして働いていたという。

 

マン法の告発は取り下げられたものの、財務省の小切手を現金化しようとしたことは依然として連邦法違反であった。

 

マンソンの1961年9月の年次レビューでは、彼には「自分自身に注目してもらおうとする途方もない衝動」があったと書かれており、この観察は1964年9月にも反映されている。

 

1963年、レオナと離婚。その過程で、彼女はマンソンとの間にチャールズ・ルーサーという息子がいると主張している。有名な都市伝説によると、マンソンは1965年後半にモンキーズのオーディションに受けて、落選している。

 

1966年6月、マンソンは2度目のターミナル。アイランド送りとなった。1967年3月21日の釈放日まで32年間の半分以上を刑務所などで過ごすことになった。

 

これはおもに、彼が連邦法に違反する罪を犯したからである。連邦政府の判決は、同じ犯罪の多くに対して州の判決よりもはるかに厳しいものであり、今もそうである。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Charles_Manson、2020年7月11日アクセス

https://en.wikipedia.org/wiki/Manson_Family、2020年6月12日アクセス