ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのニコ

ニコ

ニコ(1938年10月16日-1988年7月18日)は、ドイツ人シンガーソングライター、ファッションモデル、女優。本名はクリスタ・ペーフゲン。1960年代にウォーホルの「スーパースター」の一人として有名になる。1967年にリリースされたヴェルヴェッド・アンダーグラウンドのデビュー・アルバム「ヴェルヴェッド・アンダーグラウンド・ニコ」のボーカルとして知られ、またフェデリコ・フェリーニの映画「甘い生活」や、アンディ・ウォーホルの実験映画「チェルシー・ガールズ」で女優として活躍。

本名 クリスタ・ペーフゲン
生年月日 1938年10月16日 
死没月日 1988年7月18日
活動地域 ニューヨーク、ファクトリー
職業 シンガソングライター、モデル、女優
ジャンル アート、ロック、フォーク、パンク、アヴァンギャルド
関連人物 アンディ・ウォーホル

ストーリー


幼少期


ニコはドイツのケルンで生まれた。2歳のときに母と祖母とともに第二次世界大戦のケルン爆撃を避け、ベルリン郊外にあるシュプリワルドの森へ移る。父ヘルマンはケルンの酒造家の名門に生まれ、戦争中には兵役で招聘され、戦時中に頭に重傷を負い、脳に障害が残り、精神医学病院で生涯を終えた。噂によればPTSDで精神衰弱に陥ったともされている。

 

1946年にニコと母はベルリンの下町へ移り、ニコは針子の仕事を始める。13歳まで学校に通い、その後はデパートメントストア「KaDeWe」でランジェリー販売の仕事をして、最終的にはベルリンでモデルの仕事にするようになった。その約180cmの身長と彫りの深い磁気のような肌で、ニコは10代の若者ファッションモデルとして注目を集めるようになった。

 

15歳のとき、米空軍で一時的に働いるときに、ニコはアメリカの軍曹にレイプされた。軍曹は軍法会議に処され、ニコは裁判で追訴のため証拠を出した。ニコの歌「シークレット・サイド」はレイプを言及したものである。

モデルと女優時代


ニコは16歳のとき、ベルリンのKaDeWeのファッションショーに出演していときに写真家のハーバート・トビアスの目に留まる。彼はニコの元ボーイフレンドで映画監督だったニコス・パパタキスから「ニコ」というニックネームを付けた。以後、ニコは生涯そのニックネームを使うことになる。

 

ニコはその後、パリに移り、『Vogue』『 Tempo』『Vie Nuove』『Mascotte』『Spettacolo』『Camera』『Elle』などのファッションモデル誌で活躍する。17歳のときにココ・シャネルと契約し、シャネル商品のプロモート活動を行うが、彼女は仕事を放棄してニューヨークへ逃亡する。その後、世界中を旅しながら、彼女は英語、スペイン語、フランス語会話を身につける。

 

いくつかのテレビ広告に出演した後、ニコはアルベルト・ラットゥアーダの映画『テンペスト』に出演して小さな役仕事を得る。またほかにルドルフ・マテの『フォー・ザ・ファースト・タイム』にも出演した。女優としての活躍はここからはじまる。

 

1959年にフェデリコ・フェリーニの映画「甘い生活」の撮影現場を訪れ、彼女はフェリーニに一目置かれる。フェリーニはニコをそのまま「ニコ」という役名で、主要なキャストとして抜擢することに決めた。この頃までにニコはニューヨークに定住しており、演技指導者のリー・ストラスバーグのもとで女優のトレーニングを始めていた。

 

1961年にジャン=ポール・ベルモンドの映画「勝負をつけろ」に出演した後、ジャズ・ピアニストのビル・エヴァンスの1962年のアルバム『ムーンビーム』のジャケットカバーモデルを飾る。ニューヨークとパリを行き来しながら、1963年にジャック・ポワトルノーの映画『Strip Tease』で主演を務めた。セルジュ・ゲンスブール作詞・作曲で主題歌も歌ったが、曲は2001年までリリースされなかった。

 

1962年にニコは男の子クリスチャン・アーロン・ブロングを出産。父親はアラン・ドロンとされているが、ドロンは父親であること否定しているが、子どもはドロンの母親と夫らに育てられている。

ヴェルヴェット・アンダーグラウンドと音楽


ニコの歌手活動しての最初のパフォーマンスは、1963年12月、ニューヨークのナイトクラブ「ブルー・エンジェル」という場所で行われた。そこで「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」といった曲を歌った。

 

1965年にニコはローリング・ストーンズのギターであるブライアン・ジョーズと出会い、ファースト・シングル『I'm Not Sayin'』のレコーディングを行う。B面は『The Last Mile』。俳優のベン・カールーザーズが同年夏にパリでボブ・ディランに彼女を紹介する。1967年にニコは彼女のファースト・アルバム「チェルシー・ガール」の収録ためにディランの「I'll Keep It with Mine」のレコーディングを行う。

 

ブライアン・ジョーズからの紹介で、ニコはニューヨークでアンディ・ウォーホルのもとで働き、またポール・モリッシーとウォーホルの共同実験映画「チェルシー・ガールズ」をはじめ、さまざまな実験映画に出演した。

 

ウォーホルは、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのマネジメントを行いはじめた頃、ニコに女性のリードボーカルとしてグループに加入を提案した。個人的な問題や音楽性の問題がありつつも、しぶしぶニコは同意して加入する。

 

その後、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドはウォーホルが企画する、音楽・照明・映像・ダンスなどを融合したマルチメディアパフォーマンスイベント「Exploding Plastic Inevitable」の目玉バンドとして活躍。1967年にデビューアルバム『ヴェルヴェット・アンダーグラウンド・ニコ』をリリース。当初は3万枚ほどしか売れずヒットしなかったが、後に再評価され、今日では歴史的な名盤とされている。同アルバムはローリングストーン誌の「オールタイム・グレイテスト・アルバム500」で13位にランクインした。 

 

しかし、当初から危惧していたように音楽性や個人的な表現の不和などからニコがヴェルヴェット・アンダーグラウンドで活動するのは難しかった。ニコのドレシングルームでの長時間の準備やパフォーマンスの準備は、ルー・リードらメンバーらをいらいらさせたという。そのため、デビューアルバムがリリースしたときには、すでにニコは脱退しており、アルバム名が示す通りニコはゲスト的な扱いとなって終了した。

「チェルシー・ガール」でソロ・デビュー


ヴェルヴェッド・アンダーグラウンドの活動から離脱してすぐに、ニコはソロのミュージシャンとして活動を始める。ニューヨークのエレクトリックナイトクラブ「The Dom」やカフェなどを拠点に、パフォーマンスやソロのフォーク活動を行う。

 

これらの活動でニコは、ヴェルヴェッド・アンダーグラウンドのメンバーをはじめ、ティム・ハーディン、ティム・バックリィ、ランブリン・ジャック・エリオット、ジャクソン・ブラウニーら、さまざまなギタリストたちと活動を行い、このときの活動が『チェルシー・ガール』の基盤となった。

 

1967年10月にニコは、デビューソロ・アルバム『チェルシー・ガール』をヴァーヴ・レコードからリリースする。ボブ・ディラン、ジャクソン・ブラウン等が曲を提供し、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのメンバーも参加している。

 

『チェルシー・ガール』というタイトルは、ウォーホルの1966年の実験映画『チェルシー・ガールズ』から由来している。この映画にニコは出演もしている。音楽性としてはチェンバー・フォークと1960代ポップの中間のようなものである。

 

アルバムの出来はニコにとっては不幸に終わった。編曲に口出しすることができなかったのが大きな理由で、本当はドラムやギターをもっと挿入してほしかったが、特に嫌なフルートを挿入されてしまったという。

1970年代の音楽活動


1969年に「マーブル・インデックス」をリリースするため、ニコは作詞と作曲を行う。ニコのハルモニウム中心の演奏を行い、ジョン・ケールがフォークやクラシカル楽器で編曲を行い、アルバム化した。これ以降、ハルモニウムは彼女の生涯において主要な楽器となった。なお、アルバム収録曲の1つ「イブニング・オブ・ライト」はフランソワ・デ・メニルによってMVが制作された。

1970年代になるとニコはパフォーマンス・ライブに戻り、ロンドンやアムステルダムでコンサートを行う。そこで彼女とジョン・ケールはピンク・フロイドと共演もした。1972年にパリのバタクランで、ニコとケールはルー・リードと一度限りのライブで再開した。

 

ニコは、1970年に『Desertshore』、1974年に『The End... 』の2枚のアルバムをリリースしている。その後18年間で6枚のアルバムをリリースした。彼女は1985年に最後のアルバム『カメラ・オブスキュア』をリリースした。 

 

1974年12月13日、フランスのランスのノートルダム大聖堂で、ニコはタンジェリン・ドリームの評判の悪いコンサートで共演した。主催はチケットを膨大に売りすぎたため、客は動くことができなかったり、会場から溢れ出てしまい、大聖堂のなかは動けない客の排尿だらけになった。

 

この時期に、ニコはベルリンのミュージシャンでアシュ・ラ・テンペルのギターだったルッツ・ウルブリッヒに出会う。その後、ウルブリッヒはニコの残りの10年を通じて彼女のコンサートの多くでギターとして出演するようになる。

 

この時期にニコは髪の色を自然色であるブラウンにもどし、全身はほぼ黒の衣装になった。この頃のニコのイメージが一般的にイメージとなった。

 

1970年から1979年の間、ニコは1969年に出会ったフランスの映画監督フィリップ・ガレルの映画に多数出演。彼との出会いはニコがガレルの映画『処女の寝台』に彼女の楽曲『The Falconer』を提供したのがきっかけだった。ニコとはその後結婚し、1972年の『内なる傷跡』から、彼女を主演に前衛的な映画を7本製作し、1979年に離婚するまで公私に渡るパートナーであった。

 

1979年にニコはニューヨークに戻り、ライブハウスCBGBでカムバックコンサートを開催。「ニューヨーク・タイムズ」で好印象なレビューが掲載された。その後、スクワット・シアターをはじめさまざまな会場でライブ活動を行った。

1980年代


1980年代は活動が低迷した。フランスでニコは、写真家のアントワン・ギアコモー二を紹介される。ギアコモーニによるニコの写真は次のアルバムに使用され、本でも特集されることになった。ギアコモーニを通じてニコはコルシカのベーシストであるフィリップ・クィリチーニに出会い、1981年にリリースされたアルバム『Drama of Exile』のレコーディングを行う。これはジョン・ケールとの初期作品から離れたもので、ロックと中東音楽をミックスさせたもになった。

 

80年代初頭にイギリスのマンチェスターに移ったあと、ニコはアラン・ワイズをマネージャーにし、多くのライブパフォーマンスのためのバックバンドを編成させる。この時期から、ニコは日本を含む世界各地でライブを活発に行い、その模様は多くのライブ・アルバムに記録されている。

 

ニコの最後のアルバムは1985年にリリースされた『Camera Obscura』。プロデューサーはジョン・ケール。リチャード・ロジャースやロレンス・ハーツの歌をカバーしたものだった。

 

ニコは何人かの友人や同僚からレイシストだったと記述されている。ニコは生粋の北欧系アーリア人だった。ニコはレストランで混血の女性をワイングラスで殴り「私は黒人は嫌いだ」と叫んだことがあった。ベルリンでパフォーマンスをしているとき、ニコはドイツ国家「ドイツの歌」を歌い、観客が暴動を起こしたことがあった。

 

ヘロイン中毒と死


ニコはヘロイン中毒で、それは15年以上におよぶものだった。身体はかなり衰弱してきていた。1980年代の彼女のバンドメンバーであるジェームズ・ヤングは、ヘロイン中毒が元だったニコの多数のトラブルについて話している。

 

さらに、自分の息子にもヘロインをすすめいてた。死の直前にはヘロインはやめてメタドン代替療法を行い始め、またサイクリング運動や健康的な食生活をしていた。

 

1988年7月18日、息子のアリとスペインのイビサ島でバカンスをしている際、ニコは自転車にのっているときに心臓発作をお越し、転落してて頭を強く打つ。通りかかったタクシードライバーが意識不明状態のニコを発見し、地元の病院に搬送するも、ニコは熱暴露に罹患していると誤診され、その夜8時に亡くなった。X線検査後、ニコの死因は脳内出血だったことが明らかになった。

 

息子は事故の様子をこのように話している。

「1988年7月17日午前、母は私にマリファナを買いに下町にいってくると告げた。母は鏡の前に座り、頭に黒いスカーフをまとい、其の年の最も暑い時期の正午過ぎに「すぐに帰ってくる」と行って自転車で丘を下っていった。」

 

ニコは自分自身を19世紀初頭のカウンターカルチャー運動であるロマン主義運動をトレースした、いわゆるボヘミン・アーティストと認識していた。彼女の生活はノマディック・スタイルで、さまざまな国を移動しながら生活した。ドイツを離れたあと、フランス、アメリカ、イタリア、イギリスなど世界中をまわり、最後はスペインで亡くなった。

ソロアルバム


タイトル
1967 Chelsea Girl
1968 The Marble Index
1970 Desertshore
1974 The End...
1981 Drama of Exile
1985 Camera Obscura

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