【結合双生児】ラダン&ラレ・ビジャニ姉妹「イランの頭部結合双生児」

ラダン&ラレ・ビジャニ姉妹/ Ladan and Laleh Bijani

イランの頭部結合双生児


概要


 

生年月日 1974年1月17日
死没月日 2003年7月8日
国籍 イラン
病名 結合双生児

 ラダン&ラレ・ビジャニ姉妹(1974年1月17日-2003年7月8日)はイランの結合双生児。二人は頭部で結合していたが、特に障害も起こらず問題なく暮らしていた。しかし、2003年に分離手術を受けて2人とも亡くなる。偶然にも彼女たちはチャン&エン・ブンカー兄弟が亡くなってからちょうど100年後に生まれている。 

略歴

幼少期


二人はイラン南部の都市フィルーザーバードで、父ダドラ・ビジャニと母マリアム・サファリの間に生まれた。家族はローアブ村近郊で農家を営んでいた。

 

イラン革命が勃発して彼女の主治医が突然にアメリカに去った後の1979年、姉妹は病院から行方不明になる。数年後、テヘラン近郊の町カラージでビジャニの両親が姉妹を見つける。現地で二人は医師のアリゼラ・サファイアに養女として育てられていたという。

 

両親はサファイア医師に対して親権を主張したにもかかわらず、姉妹たちはサファイア医師のもとで子ども時代を過ごす選択をする。

 

2人の性格の違い


ラダンとラレは性格がかなり異なっていた。ラダンは法律学を学んで弁護士になりシラーズに移りたいと考えていたが、ラレの方はイランの首都テヘランに移り、ジャーナリストになりたいと思っていた。結局、2人はラダンの希望を選ぶことになり、2人はテヘラン大学で4年間法律学を学んだ。

 

くわえて、姉妹は趣味も異なっていた。ラレはコンピューターゲームを楽しんだが、ラダンはプログラミングを学んだ。ラダンはラレについて内向的と説明しており、ラダン自身はおしゃべりだった。

 

2人の性格があまりに異なり、またそれぞれの希望を叶えるため分離手術を受けるにいたったという。

分離手術


1996年、2人はドイツへ行き現地で医者に分離手術ができるかどうかたずねた。しかし、ドイツの医者は分離手術のリスクが非常に高く2人とも生命の危機に関わると告げ、手術を断った。

 

2002年11月、姉妹は今度はシンガポールへ行き、現地の外科医吴有晶に分離手術の相談をし、その後、国際的な論争となる分離手術を実施することになった。

 

医者たちから分離手術はいまだ非常に危険であると警告を受けていたが、2人は手術をする決断をした。

 

シンガポールに着いて8ヶ月後、広範囲な精神科や法律上の査定を進め、2人は2003年7月6日莱佛士医院で、大がかり国際的な専門外科班のもと分離手術が行われた。

 

頭部結合双生児の手術に成功したことのある外科医ベン・カーソンを含む28人に及ぶ外科医で編成され、さらに100人以上のスタッフがシフト制でサポートした。手術には2人が座った状態で手術をするための特殊設計の椅子が必要だった。

 

この分離手術は非常に困難だった。理由は2人の脳は主要静脈(the superior sagittal sinus)が共有されているだけでなく、融合していたためだった。病院によると、日米、シンガポールなどの国際医師団は2人が共有する脳の静脈をラレの方に残し、ラダンの脳には太ももからとった静脈を移植した。

 

その後、約20時間かけて頭がい骨の切断と、癒着した2人の脳の分離を進めていたが、完全に分離する直前、まずラダンさんは出血多量で手術中に死亡し、手術終了後まもなくラレも出血多量で亡くなった。