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【完全解説】戸川純「ニューウェーブの歌姫」

戸川純 / Jun Togawa

ニューウェーブの歌姫


概要


生年月日 1961年3月31日
出身地 東京都新宿区
職業 歌手、女優、
ムーブメント ニュー・ウェイブ、テクノポップ、パンク
公式サイト 戸川純事務所

戸川純(1961年3月31日生まれ)は日本の女優、歌手、作詞家。東京都新宿区出身。本名は戸川純子。バンド「ゲルニカ」「ヤプーズ」のヴォーカリスト。妹は女優の戸川京子。

 

異様なコスチュームと狂ったようなライブパフォーマンスで、特に1980年代から1990年初頭のニューウェーブやパンクシーンでカルト的な人気を集める

 

「愛してるって言わなきゃ殺す」「滴る生き血に飢えるわ」など、数々の過激かつ病的な歌詞が特徴で、メンヘラや不思議ちゃんアーティストの先駆者ともみなされている。ほかにヤンデレキャラの祖ともいわれる。

 

椎名林檎、鳥居みゆきなど、後世へのアーティストへの影響も大きい

 

1981年に上野耕路、太田螢一らとバンド「ゲルニカ」を結成し、1982年に細野晴臣に見出され「改造への躍動」で正式にメジャーデビュー。また同年、テレビへの露出も増えなか、でもTOTOウォシュレットのCM出演で一般庶民にもインパクトを与える。

 

ゲルニカ解散後、1984年にソロ・アルバム「玉姫様」をリリース、また戸川純&ヤプーズとして「裏玉姫」をリリース。1985年に戸川純ユニットとして「極東慰安唱歌」を発表。ヤプーズ・ゲルニカで活動後、ゲルニカは1989年で活動を停止。1989年、再びソロ活動中心に入る。

 

2017年2月14日、DOMMUNEで、戸川純の芸能生活35周年特別番組「疾風怒濤きょうは晴れ」が生配信され、メディアから姿を消して以来22年ぶりに番組に出演した。

 

現在はおもにアーバンギャルドのおおくぼけいとのユニット「戸川純 avec おおくぼけい」でマイペースに活動している。

略歴


幼少期


戸川純(本名:戸川純子)は1961年3月31日、午前11時55分、東京の新宿歌舞伎町の裏新宿赤十字病院で生まれ、百人町で幼少期をおもにそこで過ごした。昭和36年はサリドマイドが多く生まれた年だった。生まれて退院した直後新宿日赤病院は火災にあったが、五体満足な戸川純はとても運の良い赤ん坊だった。

 

幼稚園に入る前は、とても絵の上手なら少女だったと。アパートの壁にいたずら描きをして叱られたこともある。それが悪いことだという意識があったため、わざと絵をヘタに描いて自分を偽装したが、そのあたりで絵を描く子どもは彼女しかいなかったので、すぐにバレた。戸川はいつもたった1人で、地面に蝋石で絵を描いて、長い一日を過ごしていたという。

 

その頃、ちょっと風邪をひくと、今のアルタのあたりにあった二光の診療時によく行った。食糧品デパートの上のほうが診療所になっており、そこの小児科に通っていた。

 

父が何か買ってくれるというと、ほかのデパートより遅くまで営業している駅ビルに彼女を連れていってくれた。

 

歌舞伎町へは、花壇に種を植えにいったりして、よく遊びにいった。道端でよくビニール袋を吸ってゴロゴロしている人を見かけたという。そういうとき両親は「ああいうふうになっちゃいけないよ、側に寄っちゃいけないよ」と彼女と言い聞かせた。

 

戸川純は、もともと、とてもお芝居の好きな子どもだった。子どもながらに、自分でちょっとした台本を書き、近所の人たちを集めて、演芸会を開いたりした。チラシを書いて配ったり、友達をむりやり誘ったりした。

 

西大久保教会幼稚園というキリスト系の幼稚園に入園した彼女は、キリスト降誕劇で一番右側の天使の役をしたことがある。しかし、そのとき彼女が演じたかったのは、マリア役だったという。

劇団ひまわり


新宿区立戸山小学校に入学し、小学三年生のときのある日、彼女が学校から帰宅すると、母と妹京子が何やら騒いでいた。急に妹の写真を撮ったり、書類に何か書き込んだりしていた。妹は劇団ひまわりの入団試験を受けるというのだった。

 

一次審査は書類選考で、第二次審査は面接だった。審査員に芸能人が来るというので、純も一緒についていった。純が妹を待っていると1人の大人が近づいてきて「君もやってみない?」と声をかけてきた。そう言われて純も大勢の人たちの前に立つことになった。

 

セリフを読まされ、その後でいくつかの質問があった。「何をやりたいですか」という質問に、テレビっ子だったので「テレビに出たいです」と答えた。何の番組に出たいか聞かれ『ゲバゲバ90分』と答えたかったが、当時の彼女には恥ずかしくて、その番組名が言えず「コミカル番組ですねえ」と答えた。

 

『ゲバゲバ90分』は子供時代の彼女に、非常にインパクトを与えた。起承転結ではなく、すぐに帰結してしまうそのスピード感は、子どもにとってはわかりやすいものだったという。その番組に出ていた大辻司郎という人が気になった。彼だけが他の人達が笑っている中で、1人怖い顔をしていたという。後に大辻司郎は首吊り自殺をした。 

 

劇団ひまわりに入団した戸川純は、日曜日ごとに、バレエや、日舞や、歌や、お芝居の稽古に通うことになる。そうした環境で彼女には確固たる自信が生まれていった。彼女は舞台的なものが得意だと気づいたという。それは舞台特有のあのクサイいろみたなものの真似ができたからだという。しかし、入団当初はエキストラのような役ばかりで、セリフのあるものはなかったという。

 

演じることは戸川にとって快感だった。いつもの自分ではない、という自覚が生まれるとき、成功を感じるのだった。演技の上では不可能なことが可能になる。何か自分以外のものになりたい、という願望は、高校を卒業するまで持ち合わせていた感覚だった。

 

しかし、芝居の仕事の関係で一ヶ月も授業を早退することが続き、学校とトラブルになり、一時的に芝居は中止することになる。結局それから、高校卒業までの6年間、長い長い蛹の期間がはじまったのだった。

変な癖


子どもころの戸川純には変な癖があった。通学路の特定の箇所にさしかかったときいつも急に立ち止まり、五歩後退する。それから二歩進む。また一歩後退して、八歩進む。こうしてでないとそこから先に進めなかった。

 

また、学校の米屋の前に来ると、米の自販機をペロッとなめる。これも、どうしてだかわからないがしなくてはいけなかった。お米屋のおじさんは、その度「またやっている・・・・・」というような嫌な目で観たが、戸川は毎日続けた。

 

学校へ着くと、机から椅子を15回ひいてからやっと座れる。ランドセルから机に教科書を移すのにも、6回かかる。授業中この類の癖がでて、「戸川さん、何してるんですか!」と先生に注意され、クラスの皆の注目の中で、それでも、七回なら七回、11回なら11回繰り返さないと絶対やめられなかった。恥ずかしくて悲しくて、涙を浮かべながら、必死にそれをしたものだった。

 

ある日、戸川と同じ癖(強迫性障害の行動かと思われる)のある男の子の噂を聞いた。彼は必死に階段を上がり降りしていた。戸川は終わるのをまった、すると彼はやっとノルマが終えてこっちへ寄ってきたので声をかけた

「つらいでしょう」

「見ないでくれ。恥ずかしいんだ」

彼は必死に癖を続けながらそういった。私は彼に自分が同胞であることを告げた。

小学生時代のいじめ


劇団ひまわりに入って、舞台活動をしはじめたころから、いじめられるようになる。同じ劇団の女の子2人から公演の砂場で描いていた絵を足でむちゃくちゃに踏みつけられて破壊される。

 

また、小学校でもいじめられる。特別な理由があったわけではいが、もともといじめられっ子タイプだったのか、男の子に物を隠されたり、傘を折られたりした。ボロボロになった傘を持って、帰った戸川を見て母はしょうがないわねえとため息をついたものだった。

 

もしも自分の手から、ビーッと光線が出て、いじめっ子をやっつけることができれば…戸川はそんな空想ばかりするようになった。いじめられて悔しいときに、それをやめさせるような、もう自分をいじめないでくれるような…いじめっ子が、わぁーっと思うようなものが欲しかったという。

 

いじめられっ子ではあったが、どんなにいじめられたときでも戸川純は涙1つこぼさなかった。彼女の父が泣くということを極端に嫌っていたためである。小さい頃から戸川は絶対泣いてはいけないと言い聞かされた。父に叱られぶたれたときでも、決して戸川は泣くことはなかった。それで戸川が泣かない女になった

戦前昭和文化への関心


戸川のサブカル的なもの、特に戦前の文化に対する関心は小学六年生からはじまる

 

小学校六年生のときの同級生の男の子と「戦艦ポチョムキン」の話しで盛り上がり仲良くなった。「戦艦ポチョムキン」の光景が戸川にとっては、ともて恐いものだった。

 

その男の子は"右翼の中野"と呼ばれていた少年で、彼は1人でドイツ軍遊びをやっていて、ヒトラーだのヒムラーだのゲーリングだの役割を演じていた。戸川はそんな男の子をそっと見ていて、男の子はいいなぁと思ったという。

 

また、そのころに戸川は、1人で図書室へ行ってはいろいろな事を調べるようになった。1930年代のこと、ナチズムのこと、右翼のこと。父が彼女に戦前の教育をしたこともあり自然と戦前の文化に関心を持ったのかもしれないという。

 

父とよく一緒に見たテレビ番組は昔の古いニュースとか、阿部定事件とか帝銀事件とかの特集番組だった。それは「戦艦ポチョムキン」同様に幼い彼女にとって多大な影響を与えた。父はよく戦前のその頃のことを語って聞かせたという。

丸尾末広『PRESS』東京おとなクラブ増刊1984年8月増刊号
丸尾末広『PRESS』東京おとなクラブ増刊1984年8月増刊号

中学時代のいじめ


戸山中学校に入学後、戸川純は演劇部のほかに放送部と合唱部に入部する。合唱部でのパートはアルトだった。

 

中学に入ってもあいかわらずいじめられていた。教室で勉強していると、机をガーンと蹴り倒されたりした。

 

中学一年のときに転校することになったが、転校先でもまた陰湿ないじめが待ち受けていた。ただ、そのときのいじめは少し理由があり、彼女が、"新宿から来たスケ番"であるという噂が流れたためである。

 

仲間はずれにされた彼女はとうとう登校拒否になった。ストレス性のためか、朝起きて学校にいきたくないなあと思うと、毎朝八時ぐらいに頭痛と腹痛が起き、盲腸と診断され入院することになった。

 

しかし、この盲腸は誤診で医者は精神的なものとみなしておらず、間違って盲腸を切ってしまったという。退院後も結局学校へ行くことはなかった。

 

その後、以前の学校に戻ることになるが、帰ってからも相変わらずいじめは続いた。だが、彼女にとってはもういじめはどうでもよくなっていた。むしろ、いじめる周囲が好きだった。どんなにいじめられてもニコニコして、怒ることなく、それでも周囲の人が好きだったのだという。

 

怒りや悔しさよりも、なぜかわからないが自分がいつもいじめられるのは、自分に何か問題があるのではないかという思うようにもなった。そして、他の普通に、いじめられずにいる人達みたいになりたいなと、思い続けた。

初恋


中学のときに戸川純は初恋をする。ある男の子から戸川の友達に贈り物を届ける仲人をしたのがきっかけだった。仲人しているうちに戸川の方がその男の子を好きになった。普通の健康な少年だった。

 

中三のときに、戸川は隣の席の男の子に、プラトニック・ラブしていた。ちょっとアンチ精神があって、元気で、適当におもしろいという、典型的な健康的な少年だった。その少年にはつきあっている彼女がいて、二人は一緒に学校を帰ったりしていた。

 

いじめられ人生を歩んできた戸川にとって、「悔しい」や「嫉妬」という思いはなかった。それは、弱い動物が身に付けた「諦め」という悲しい智慧だった。

自虐癖と防御壁の高校時代


高校入学後、戸川純は変貌する。スカートを上げ、白い靴下を三つ折りして、カバンも膨れたものに買い直す。すべての希望を失った彼女の内に、明確な自虐癖があらわれ、また育ちはじめた

 

どうせ、ダサくてつまらない人生なんだから、もっとダサくしてしまえ、と自分を言い聞かせた。そして、彼女はじっと変な格好のまま黙りこみ、入っていける話題があっても絶対に喋らなかった。

 

もう中学のときのようにいじめられたりすることはなくなった。中学のときと異なり、彼女の方から拒否し、防御壁を張り巡らすことによっていじめを避けた。また、すべり止めの学校だったこともあり、周囲を馬鹿にしきっていた。

 

彼女は心底、その学校が嫌いだった。何も勉強しなくても、上位から彼女の成績が下ることなく、それがとてつもなく恥ずかしかったという。

 

時期的には反抗期ではあるが、彼女は親に対する反抗心はまったくなかった。とにかく戸川は人生で親に逆らったことは一度もなかったファザコンを自認しており、決して歯向かったことはなかった。

 

彼女にとって父は神様のようなもので、父に叱られるということは、もうバチが当たるとか、それほどのことだったという。父のほうも彼女を溺愛していた。愛情が薄くて彼女を不幸にするということはなかった。

高校時代に育まれた内面的怒涛


高校時代の3年間を戸川純は、本当に悶々として過ごした。女の子にとっては、いちばん大切な時期なのだろうが、その大切な時期に彼女は妄想の世界に浸ることにした

 

高校時代の戸川純を救ったのは、想像の世界だった。コペンハーゲンのお城の塔に幽閉されているお姫様や、昭和25年の上野のガード下の焼鳥屋さんの世界に憧れた。一度目をつむると彼女は無限に広がる世界に入っていけたのだった。

 

1人の部屋で、いろんな衣装を用意して、ひらついたドレスに、レースのランジェリー、安物のおもちゃのアクセサリーをつけて、口紅を塗り、鏡に映った自分に向かって一日中お芝居をしていた

 

戸川は怒涛の青春っぽいものにすごくあこがれがあったが、自分には怒涛はない。外的な怒涛がないとすると、内面で怒涛をみたしてしまうしかなかった。それで、戸川はシチュエーションを決めて演技する。自分だけの1人の部屋で、どういった遊びをすることで、戸川の内面にはむくむくと怒涛が胎動していった

 

内面の想像世界は、戸川純をどんどん浸食していき、思い出を作るように、細部まで刻明に想定されていった。そうすると、それはもう本当にあったことなのか想像したことなのか、彼女自身にも区別がつかなくなった。その時期のころは、いまだに区別が付いていないという。現実と虚構の区別がつかなくなっていた

※1:17歳、女優前夜の戸川純。
※1:17歳、女優前夜の戸川純。
丸尾末広『戸川純のユートピア』(廣済堂出版)、1987年
丸尾末広『戸川純のユートピア』(廣済堂出版)、1987年

ファッション・ナチズムの先駆け


16歳のとき天啓が訪れた。レコード屋の店先のビデオ画面の向こう側からまばゆい光を放ちながら「セックス・ピストルズ」という名前が流れてきた。想像もつかないことが、少女の内部で起ころうとしていた。

 

体制があり、反体制(団塊の世代)がある。自分たちの世代は、さらにそれ(団塊の世代)に対する反体制なのではないかと戸川純は思った

 

もともと、戸川の部屋にはSS(ナチ親衛隊)の旗が貼られていた。それからさらに彼女はヒールをはいて、マニキュアをして、黒い口紅を塗る女の子になった。その格好のまま、お使いにいくのだった。

 

厳しかった両親も不思議なことに彼女の趣味に関してはひとことも口をはさむことはなかった。戸川の部屋の壁には、ヌード写真淫らなものや、布製のハーケンクロイツの旗が貼られていたが、父は「お前は変わった趣味をしている、女の子っぽくないなあ」というだけだった。

 

戸川のナチズム趣味は、現代のサブカルっ子と同様、多分にファッション的なものだった。戸川はファッション的ナチズムの先駆けだった。そこに戸川は少女ながらの退廃の美学を見出したのだった。決して思想的に肯定するわけではなかったが、ロマンチシズムやデカダン的なものを感じた。小さい頃から父と趣味を共有して、しかし、どこか違うと感じつつ、その答えがそこにあった気がしたのだった。

解禁された女優業とバンドのおっかけ


高校を卒業後、戸川純は関東学院大学文学部英米文学科大学に入学し、ついに6年間におよぶ女優への道の禁を解かれることになった。

 

戸川純はさまざまなエキストラをつとめるようになり、ついにはテレビドラマの準レギュラーのオーディションに受かった。水曜劇場の「しあわせ戦争」というドラマだった。オーディションのとき、特技は?と聞かれた戸川純は、李香蘭の「蘇州夜曲」を唱ったという。そこには、もう、かつての消極的な少女の影はうかがえなかった。

 

大学は一日目から行かなくなってしまうのではないかとおもったが、半年は学校へ行くことを決めた。それは楽しい大学生活だった。もう、昔のようにいじめられることもなく、仲間はずれになることもなく、周囲からおもしろがられるようになった。

 

大学入学当初はブロンディーの顔が入ったTシャツに、鋲を打ったメリケン、安全ピンのピアスをして、髪はツンツンのパンク姿のパンクファッションをしていたが、途中でパンクファッション冷めて今度はアンチックのワンピースや昭和初期的なアナクロファッションを身にまとうようになる

 

また、門限が少し緩くなり8時半になった戸川は、当時よく、パンクバンドのライブを観に行った。そのなかでも、8 1/2という、少し毛色の変わったバンドが目に留まった。1979年9月9日、日比谷公園で鳩に豆をやっていると野外音楽堂から"ドンドンドン……"という音が聴こえくる。見に行くと8 1/2の演奏をしていた。

 

とてもロマンチックな部分があり、30年代くさくて、それはいたく彼女の美意識を刺激した。その1年後には、運命的にメンバーの1人、上野耕路と出会うことになった。

 

1979年、上野は8 1/2から脱退し、ハルメンズが結成される。戸川純はハルメンズの追っかけをしており、また「ナイロン100%」というニュー・ウェーブの人物が集まる喫茶店兼ロック・スタジオへ遊びに来ていた。

 

1980年9月に戸川純は『ハルメンズの近代体操』のミックスダウンのスタジオを見学する。また、9月3日に戸川が準レギュラー出演したTBSドラマ「しあわせ戦争」の放送がちょうどスタートする。

 

そのため戸川はハルメンズ周囲に「自分は女優だ」と話していた。上野は戸川に女優なら発声の訓練とか、ダンスの素養もあるに違いないと思い、ある日、一緒に晴海に遊びに行った帰り、銀座の公園に立ち寄り「めぐりあいの泉」の前で、戸川に「歌を唱ってみてください」と頼んだという。

 

上野は事前に仲間から「戸川は李香蘭の「蘇州夜曲」を唄うのと同じような声で、ものすごくソプラノでニナ・ハーゲンみたいな声も出る」という戸川の噂を聞かされていた。ナイロン100%で誕生パーティをやっていたとき、戸川は何も持たないで行ってしまったので「歌をプレゼントします」と言って、「蘇州夜曲」をアカペラで歌い、その時の歌を8 1/2の久保田慎吾が録音して、上野に聴かせていた。

 

夕暮れの銀座の空に戸川のソプラノが響きわたったそして、それはゲルニカの始まりを告げる声となった

ゲルニカ


その後、上野は戸川に新バンドのヴォーカリストになってくれるよう説得し、リハーサルを開始。当初のバンド名は、イントナルモーリ(イタリア未来派のルイジ・ルッソロが考案/作成し演奏した騒音楽器の名前より)であった。

 

1980年12月、最初のオリジナル曲「ブレヘメン」が誕生。歌詞は「宝島」'80年11月号に掲載された太田のイラストレーションにそえられた詩より引用している。

 

1981年2月、上野から太田蛍一が作詞、美術でバンドに参画するように要請されて加入する。太田のアイデアでバンド名を「ゲルニカ」に決定。この時期までは50’sロックンロールの曲もカヴァーしていたが、太田の主張により戦前のレトロなイメージに特化する事となった。

 

3月23日から4月21日の間、戸川は『ハルメンズの20世紀』のレコーディングに参加している。

 

1981年5月24日、渋谷ナイロン100%のライブ「スペシャルプライスランチ」でゲルニカ初ライブ。「ブレヘメン」「カフェ・ド・サヰコ」「工場見學」「蘇州夜曲」の4曲を披露し、以後、ライブの度に新曲が追加されていった。

 

二度目のライブが6月25日、渋谷屋根裏で行われた。その頃はまだ、誰もゲルニカを知らず、最初「ブレへメン」を唄い終え、「どうも」といったとき、客席はシーンと静まり返っていた。

 

その後、一瞬遅れて、うわあー、パチパチパチと怒号のような拍手と歓声が鳴り響いた。それからは何かをやるたびに歓声が沸き起こり、サビで盛り上がるところでは、客席は総立ちで手を叩いていた。

 

ライブ二回目にして、渋谷屋根裏にいた誰もが戸川純の存在を脳裏に焼き付けられていた。もっとも異常に受けたライブではなかったかと、伝説化された。

 

戸川は当時について「私はちょうど病院に入院していたんです。テープと楽譜を御見舞に持ってきてくれて、病室で練習をして、外出許可をもらって「屋根裏」のライブに出たの。そしたら、すんごいうけたのだわー」と話している。

 

また、大田は当時について「すごくうけましたね。「ブラボー・ブラボー」と声が上って。「ゲルニカ」はまだ無名で、偶然来たお客さんばっかりだったのですが…。今だにあんなに感動したライブも珍しいですね」と話している。

 

細野晴臣に見出され、1982年6月にLP「改造への躍動」でYENレーベルよりメジャーデビューする。その後、さまざまな話題をふりまきながらTV番組も多数出演し、戸川の名前が一般に知られてはじめる。

 

シングル「銀輪は唄う」を発表後、1983年2月に活動を突然休止。

活動休止の原因は、父親のやっていた家業が傾いた上野が一時、音楽活動を続けられなくなったためなどプライベートな事が原因だという。

玉姫様


ゲルニカ休止後ほどなく、戸川純の脳内に"玉姫様"という言葉がひらめく。

 

その言葉からソロLPのコンセプトが決められ、1983年11月23日、渋谷パルコ、スペース・パート3で開催されたモダーン・コレクションの初日に戸川は出演。

 

「ひと月に一度、座敷牢の奥で、玉姫様の発作がおきる・・・」

と唄いながら巫女装束の姿で現れた戸川は、まるで何かにとりかれたかのような目をしており、ただならぬ空気が会場中を支配する。続いて巫女姿から童女へ、そして夜の女王さながらの黒い衣装へと変わってゆき、会場の熱気はたかまっていった。

■参考文献

Wikipedia−戸川純

・戸川純『樹液すする、私は虫の女』ABC出版

https://dic.pixiv.net/a/%E6%88%B8%E5%B7%9D%E7%B4%94

http://www.teichiku.co.jp/artist/togawa/profile/profile.html

・『PRESS』東京おとなクラブ増刊1984年8月増刊号

http://www.oota-keiticle.com/guernica/talk.html

https://yaplog.jp/helloo_nw/archive/26

Wikiepdia-ゲルニカ

 

■画像引用

※1:https://www.cinra.net/interview/201612-togawajun?page=2