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【見世物】親指トム将軍「「バーナムのアメリカ博物館」の人気キャラクター」

親指トム将軍 / General Tom Thumb

「バーナムのアメリカ博物館」の人気キャラクター


概要


生年月日 1838年1月4日
死没月日 1883年7月15日
国籍 アメリカ
病名 小人症
職業 見世物芸人

チャールズ・シャーウッド・ストラットン(1838年1月4日-1883年7月15日)は、「親指トム将軍」というステージネームで知られる見世物芸人。小人症。彼はP・T・バーナムの「バーナムのアメリカ博物館」の人気ショーの1つとして知られる。

 

ストラットンはコネチッカト州ブリッジポートで、大工の父シャーウッド・エドワード・ストラットンと母エイミー・シャープのあいだに生まれた。両親はいとこ婚であり、父と母の祖先に小さな双子の女の子がいるという。

 

中背の両親のもと、生まれたときのチャールズは比較的大きな赤ちゃんで、出生時は4300グラムの体重があった。産まれてから半年間は正常に発育し、その時点で身長64㎝、体重は6.8キログラムあった。しかしその後、突然成長が止まる。成長していないことに気付いた両親が医者に見せると、普通の背の高さになることはほとんどないと告げられる。

 

1842年後半(4歳)のストラットンの状態は、生後6か月からわずか1センチだけしか伸びなかった。ストラットンとは別に、彼は全体的に正常で、健康な子供で、ほかの兄弟は皆、平均的な大きさだった。

バーナムとの出会い


遠い親戚にあたるP・T・バーナムが、ストラットンに関する噂を聞きつけ、彼の両親と連絡をとり、バーナムが彼を預かることになる。バーナムはストラットンに歌やダンスやパントマイムや有名人の物真似を教えた。バーナムはまたストラットンの父親ともビジネスを始めた。

 

ストラットンは5歳にして初めてアメリカのツアーを行い、キューピッドやナポレオン・ボナパルトなどの物真似をしたり、歌やダンス、滑稽なジョークを行った。このツアーでストラットンは大評判になり、ツアーはさらに拡大することになった。

 

1年後、バーナムはストラットンをヨーロッパツアーに連れていき、国際的な有名人に仕立て上げた。ストラットンは当時のイギリス女王であるヴィクトリア女王に2度面会し、ウェールズ公エドワード7世と3度面会している。1845年にはパリのヴォードヴィル劇場の演劇に出演して大成功をおさめた。

 

ヨーロッパツアーは大きな成功をおさめ、どこにいってもストラットンの周りに群衆ができた。約3年のツアーをヨーロッパで行ったあと、ストラットンはアメリカに戻り、バーナムとともに本格的にコメディアンの道へ進みはじめた。ストラットンの名声は驚くべき速さで高まっていき、当時のニューヨークにおいて彼の人気と名声は、彼の生涯においてどの俳優よりも上回っていた。

 

1847年に2回目のツアーから戻る際、SSカンブリア船に乗る。そのとき彼は探検家のジョン・パラサーの目に留まり、「少しも驚かなった。キャビンに入ると不自然な甲高い声で「ウェイター!ウェルシュ・ラビットを持ってきて!」と聞こえきた」と話している。航海中、トム・サムはアイルランド飢餓の救済のため寄付金を集めていた。

 

バーナムとストラットン
バーナムとストラットン

フリークショーからプロのエンターテイナーへ


ストラットンのニューヨークでの初演は、フリークショー・エンタテイメントの歴史における転換点だった。ストラットンがデビューする以前は、エンターテイメント目的で「珍奇な人間」を展示することは、恥ずべきことであり、不愉快なカーニバルの魅惑とみなされていた。

 

しかし、ストラットンと彼のパフォーマンスを見た観客は、フリークショーに対する偏見を変えるきっかけになった。ストラットンの活気のある楽しいパフォーマンスはアメリカで最も劇場的な娯楽の一形態であることを示すことになった。

 

7歳でスタロットンはバーナム管理下で、壮大な全編おとぎ話調のメロドラマを演じた。スタロットンが演じたメロドラマは 「Hop O 'My Thumb」と 「Seven League Boots」である。これらのメロドラマで彼は時や場所に応じて、さまざまな役割が与えられた。

 

バーナムはスタロットンの小人症的身体でうまくビジネスを模索していたが、また一方で純粋なコメディアンとして、彼が本当に多才な人物あることを強調しようとした。

 

たとえば、スタットロンは演技が非常に優れていると評価した。また、彼は有能な俳優であり、歌手であり、ダンサーであり、コメディアンと紹介した。その結果、一部の演劇批評家たちは彼の才能をほかのフリークショーの出演者と比較することはなくなり、代わりにプロのエンターテイナーの1人として批評をするようになった。

Circa 1861
Circa 1861

結婚と晩年


1846年、スタロットンの身長は、生後6ヶ月以来はじめて成長しはじめた。1851年1月、スタロットンの身長は74cmになった。18歳の誕生日には、82.6cmにまで背が伸びた。21歳の誕生日のときには86cmになっていた。1862年10月3日にフリーになったときは89cmになっていた。

 

1863年にスタロットンは同じ小人症のラビニア・ワーレンと結婚。ニュースの一面で報じられた。結婚式はグレース教会で挙げられ、パーティはニューヨークのメトロポリタンホテルで開催された。二人はフロントでグランドピアノの上に立ち、約1万人の客を迎えた。結婚式のベストマンはコモドア・ナットだった。

 

結婚式の後、二人はホワイトハウスのリンカーン大統領に招かれた。二人は新婚旅行にヨーロッパだけでなくイギリス領インド、特にのちにバングラデシュとなる地域を旅した。バーナムのマネジメントのおかげで、スタロットンは裕福になった。彼はニューヨークの流行地区にある家を購入した。

死去


1883年1月10日、スタロットンがミルウォーキーにあるジョン・F・アンティズデルのニューホール・ハウスに滞在しているときに火事が起きた。ミルウォーキーの歴史家ジョン・ガルダは「アメリカの歴史において最悪のホテル火災」と呼んだ。71人以上の人々が亡くなったが、トムとラビニアはマネージャーのシルベスター・ブリーカーによって助け出された。

 

ホテルの火災事故から6ヶ月後、スタロットンは突然、脳卒中で死去。45歳だった。2万人以上の人々が葬儀に参列し、バーナムは親指トムの実物大の像を購入して、コネチッカト州ブリッジポートにあるマウンテン・グローブ墓地に墓石として設置した。