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【見世物】チャン&エン・ブンカー兄弟「"シャム双生児"の語源となった見世物芸人」

チャン&エン・ブンカー兄弟/ Chang and Eng Bunker

"シャム双生児"の語源となった見世物芸人


概要


生年月日 1811年5月11日
死没月日 1874年1月17日
国籍 タイ系アメリカ人
病名 結合双生児
職業 見世物芸人、エンターテイナー

チャン&エン・ブンカー兄弟(1811年5月11日-1874年1月17日)はタイ系アメリカ人見世物芸人。シャム(現在のタイ)・サムットソンクラーム県出身の結合双生児である。

 

結合双生児の俗称である"シャム双生児"の語源となった結合双生児で、"シャム双生児"という言葉は、当時、売り込み文句として彼らが積極的に利用していた。2人は見世物業界においてほかの見世物芸人よりも非常に裕福になり、成功したビジネスマンだった。

 

中国の伝統を持つタイで生まれた兄弟は、1829年にアメリカへ移る。現地のマネージャーに欺かれてることがわかると、契約を解除して自らで営業をはじめる。

 

彼らがフリークショーでアメリカやヨーロッパの観客に知られるようになるにつれ、当時の多くの医師や学者たちは、関心を持ちはじめた。マスコミや一般市民は彼らに同情的だったため、人種的な偏見を受けることはあまりなかった。

 

初期の興業においては、彼らはエキゾチックな衣装で、走ったり泳いだりするなど動的なパフォーマンスを行なっていた。ほかの見世物芸人と異なり、高貴な上級階級の客が来訪するよう演芸理念を定めた。そのため彼らは英語でパフォーマンスを行い、さまざまな教養話を行った。

 

商業的に成功して裕福になると、1839年から巡業を中止し、ノースカロライナ州のマウントエアリー近郊に定住する。地域コミュニティに溶け込み、やがて2人はアメリカ市民権を獲得。また地元の姉妹と結婚し、奴隷を雇って暮らした。2人は同地でプランテーションを経営した。

 

2人は21人の子どもを育て(チャンは11名、エンは10名の子を儲けた)、その子どもの何人かは10年後に巡業を再開したときに同伴もした。家族は2つの離れた家に住み、3日ごとに交互に移動した。

 

62歳で死去した後の検死では、胸骨を結ぶ靭帯に肝臓が融合していることが明らかになった。彼らの結合状態に関する逸話は、彼らが存命中のときでさえ、伝説的に話され、サイドショーにおいては誇大宣伝され、売り文句用の作り事が混同した状態だった。

重要ポイント

  • "シャム双生児"のルーツとなった結合双生児
  • 上流階級の顧客を相手に成功した数少ない見世物芸人
  • 2人あわせて21人の子どもをもうけ現在1500人以上の子孫がいる

詳細な個人史


幼少期


チャン&エンは1811年、シャム(現在のタイ)で生まれた。彼らの母は報告によれば出産はほかの兄弟よりも難産ではなかったという。彼らの正確な生年月日や幼少期の詳細は不明であるが、1811年5月生まれとされている。生まれた村はメークローンと呼ばれていたところである。サムットソンクラーム県にある2人の像が双子の生誕地を記念している。

 

2人の父、チー・アイは中国系の漁師だった。彼は双子が幼少のころ、おそらく1819年の天然痘の流行で亡くなった。2人の母親ノックは子どもたちの助けを借りてアヒルを育てていた。彼女の民族的起源は不明であるが、シャム人、中国人、中国人ハーフ、シャム人ハーフ、マレーシア人ハーフのどれかであろうと推測されている。

 

チャン&エンはタイ仏教の信者で、胸骨が結合状態にもあるにも関わらず生き生きとほかの子どものように走り回って遊ぶことができた。誕生日時、エンとチャンは胸骨の柔軟な円形の肉帯(長さ約130mm、長さ約230mm)でつながった健常な結合双生児だった。

 

相続人の母親は、他の子どもと同じように彼らを同じように育て、彼らの身体的特徴に特別注意を払うことはなかったという。

 

兄弟を発見したのはイギリス商人ロバート・ハンターである。ハンターによればシャム国は信頼できる貿易国であり、当時かなり自由に国内旅行ができたという。1824年、ハンターはチャオプラヤー川で船に乗って、魚釣りをしているときに初めて兄弟に出会った。兄弟は夕暮れときに川を泳いでいたという。

 

ハンターは泳いでいる物体を見たときに、最初は「奇妙な生物」と見間違えたが、その後、彼らに会ってみたところ、彼らを西洋へ連れ行けば商売になると思いつく。しかし、シャム王から彼らの国外持ち出しを禁じられ、ハンターは西洋世界へ彼らを連れて行くのに5年もかかったという。

 

ハンターとアメリカ人船長のアベル・コフィンは、1829年夏に2人を連れてアメリカへ向かう。ハンターとコフィンは兄弟と契約を交わし、5年間は彼らの見世物巡業に順じることになった。その後、母親が2人を奴隷とし売ったという噂が流れ、その嫌疑は兄弟を大いに怒らせることになった。

 

クリスチャンの宣教師たちが1845年、兄弟の母親が死ぬ4年前に彼女に出会い、2人の近況を伝えている。彼女は息子がどこかで死んだため15年以上見かけていないと思ったが、実際は彼らは海外で生きており、最近結婚したと伝えたという。

若いころのチャン&エン兄弟
若いころのチャン&エン兄弟

世界巡業


ハンターやコフィンらとアメリカへ移ったとき、チャン&エンは17歳だった。1829年8月16日、2人はボストンに到着し、翌日『ボストン・パトリオット』紙はコフィンとハンターの意気込みを取材され、双子について「まもなく一般に姿をあらわすでしょう」と答えた。

 

アメリカ上陸後すぐに、2人は医師に検査がおこなわた。顔つきや骨つきなどから彼らは中国系であると診断され、彼らの出生については、人種性や作り事のさまざまな度合いを交えて報告された。

 

その後、アメリカを発ち、1831年3月にニューヨークに戻るまで彼らはイギリスの主要都市で巡業をおこなった。なお、このころまでに二人は英語の読み書きや会話ができるようになっている。当時の新聞によれば、巡業は成功して2人は巨額の利益を出し、彼らの理念は彼らを見に来る顧客は高貴であるかのように説明をはじめた。彼らの演芸自体はまだ粗末なものだったが、彼らは多くの富裕層の観客を集めた

 

イギリスの都市を巡業をする際、ふたりは数日間ホテルに一週間以上も滞在し、公衆に姿を現さないようにして公演会への来場を観客に求めた。小さな町で巡業を行う際は、二人のマネージャーは到着前にチラシを巻いて、1、2日間だけロッジや宿屋に泊まった。二人の最初のマネージャーだったジェームズ・W・ホールは、二人を「シャムの若者」という売り文句で宣伝を行った。

 

公演会の入場料は25セントで、これは現在の6ドルに相当する。巡業時には兄弟に焦点をおいたパンフレットやドローイングなど、さまざまなグッズも販売した。

 

二人の初期パフォーマンスは、走ったり宙返りするなどおもに運動能力の高さを示すものだった。水泳をしたり、バク転をしたり、チェッカーゲームをしたり、隠し芸を行った。二人は欧米人にとっての異国情緒性を強調し、髪型を弁髪にして、東洋の衣服を身に着けた。

若者であることを強調した初期のチラシ
若者であることを強調した初期のチラシ
広告エフェメラ
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巡業中に起きたさまざまトラブル


1831年夏、ホールはマサチューセッツ州リンフィールドの避難所へ二人を連れて行った。狩猟ゲームをしているときに、彼らは10人以上の地元の男性に囲まれ、二人は怒鳴りつけられて嫌がらせを受けたので、銃の底でエルブリッジ・ゲリーという名前の男を打ちのめそうとしたが、ゲリーは仕返しに双子の頭に大きな石を投げつけ重症を負わせた。

 

双子はゲリーに空砲を撃ったが、男たちは逃走した。翌日、男性の1人が、双子は罪を犯したと主張して告訴した。特別裁判所に二人は召喚され、二人は治安を乱した罪状で逮捕され、賠償金を支払うことになった。

 

『Salem Mercury』は双子はリンフィールドの事件の被害者であると説明している。事件から2週間後、ゲリーは双子が暴力事件を誘発したことを告発した『公衆へ』というタイトルの文書を発刊した。ホールは、ゲリーらが双子の公的なイメージを中傷するような状況に陥らせたことに怒った。ホールは1831年9月にマネージャーを辞任し、友人のチャールズ・ハリスが新しいマネージャーになった。

 

ホールは慎重なマーケティングをつうじてヴァージニア州でのイベント税をどのようにして回避するかハリスに相談した。そこで、双子のツアーを「ショー」ではなく「ビジネス」と呼ぶようにした。国民の視点では、最初にアメリカに連れてきたアベル・コフィンを引き続き双子の保護者のままだった。

 

双子はアラバマ州で公演中にもトラブルに巻き込まれた。公演に来ていた外科医が立ち上がり、双子を結ぶ結紮を精査するよう要望してきたが、2年以上精密検査を許可していないため双子たちは外科医から要望を拒否。外科医は怒りの表情を浮かべ、「あなたたちすべては詐欺師と貨物船のセットだ」と言い放ち、また客が会場内で物を投げはじめて、場が大混乱しはじめ、双子は逃げ出した。

コフィンからの独立、フリーランスに


双子とアベル・コフィンの関係は1831年1月はじめから悪くなりはじめた。アベル・コフィンの妻スーザン・コフィンがいくつかの問題で双子からギャランティの支払い拒否したのが原因だった。後年、チャン&エンは、チャールズ・ハリスにこの事件について弁護してくれるよう手紙を送っている。ある例では、コフィン夫人は馬にエサをあげるという理由で、双子に週3ドルの給与を拒否したことがあった。

 

1831年後半、アベル・コフィンはアジアに向かった。1832年1月に帰国予定だった。1月が過ぎると双子とコフィン夫人の関係は完全に壊れた。双子は定期的にアベル・コフィンがいつ戻ってくるのか尋ねた。ふたりは21歳の誕生日(1832年5月)にアベル・コフィンとかわした契約が切れ、自由になる予定だった。

 

アベル・コフィンは1832年7月にマサチューセッツに戻ってきたが、双子がいないことがわかった。その後、ニューヨークのバースで二人を追跡した。双子は自分たちで仕事をしていることをすぎに公表せず、ほかの公的なペルソナもかぶらなかった。

 

彼らの関係は、本質的には年季奉公だった。つまり、奴隷のようなもので雇用者が用意した家に住み込み、食糧や日用品は支給されたが、給与は支払われないか、支払われたとしても極く僅かなものだった。

 

契約解除後に二人は自身でスタッフを雇い、自分たちの活動を管理した。ステージ名を「シャムの若者」から「シャム双生児」に変更し、アメリカの衣服を着用し、英語で観衆に話しかけ、もはや「若者」ではなく「男性」であることを強調した。

 

二人は1835~1836年にパリ、アントワープ、アムステルダム、ハーグなど西ヨーロッパ中の都市を観光旅行し、パフォーマンスは行わなかった。1836年のホールは『チャン&エン監修:アメリカのシャム双生児チャン&エン兄弟に関する事』というタイトルのパンフレットを出版した。

 

この本では、アメリカの代表である大統領のアンドリュー・ジャクソンは、双子の母を訪れたことがあるという報告など、中国人がシャム国の中ではエリートである説明し、双子を上流階級出身であることを提示している。

チャン&エン兄弟の肖像(1836年)
チャン&エン兄弟の肖像(1836年)

裕福な生活と結婚


1839年7月3日と4日に、ノースカロライナ州ジェファーソンで、チャン&エンの1829-1839の間に断続的に開催されたツアーが最終的なショーとなった。

 

1839年10月、2人はノースカロライナ州ウィルクス郡北東にあるトラップヒルの農村

地域で150エーカーの土地を300ドル(現在の6,894ドル)で購入。道路はがロアリング・リバー近くのリトル・サンディ川沿いに走っている場所である。

 

新しい土地へ移ると二人はすぐに、ジェームズ・キャラウェイやロバート・C. マーチン医師などがウィルクスのエリート社会のメンバーたちと仲良くなった。なお、以前のマネージャーだったチャールズ・ハリスは、トラップヒル地区の郵便局長に転職した。

 

二人が土地を購入したその月に、双子とアイルランド生まれのハリスは帰化してアメリカ市民となった。1790年の帰化法改正で帰化可能なのは、「自由な白人」に制限されていたが、実際のところ市民権は各州の基準で独自に発行されていた。

 

トラップヒルにある家は1840年に建てられた。二人はウィルクスの奴隷から食料を購入し、隣人と乾物を交換した。彼らはまた奴隷を買い家政婦として何人かの女性を雇用した。双子の最初の奴隷グレース・ゲイツは「叔母」と名付けられた。二人は立派な装飾の家を建てて富を誇示した。

 

1840年代初頭までに、二人の財産は1,000ドルで州内で3番目に富裕層だった。これは現在の2万4513ドルに相当する。二ホイッグ党の新聞『ソールズベリーのキャロライナ・ウォッチマン』は、二人を"本物のホイッグ"と呼び、『ボストン・イブニング・トランスクリプト』は彼らを"支配者として幸福"だっと報じた。

 

1840年、テネシー州ミラーのメディア紹介記事で双子ははっきりと結婚意志表示を示した。多くのメディアはジョークであると思っていたが、1843年4月13日、バプテストの説教師コルビー・スパークスは公式にエンとサラ・イエイツ、チャンとアデレード・イエイツのペアで結婚式を行う告知を行なった。

 

アメリカ全国(おもに北部)のメディアがこの結婚を非難したが、おそらく地元の人々は結婚前の前夜にサラとアデレードの両親の家に退位する一部嫌がらせを除いて非難の声はなかったと思われる。

 

1840年代後半までに、双子は英語を流暢に話せるようになり、投票権も得て、何人かの白人に対して刑事告訴を行なった。また二人を英語の姓「ブンカー(Bunker)」に変更した。

Adelaide Yates Chang Eng Sara Yates
Adelaide Yates Chang Eng Sara Yates

エンの妻であるサラ・イェーツ・ブンカーは1822年12月18日生まれ。4番目の子どもでデビッド&ナンシー・イェーツ夫妻の次女にあたる。"ミセス・エン"と呼ばれることもあり、彼女は無教養でごく普通の女性だが、倹約家であり料理がうまく、家庭を切り盛りした。彼女は「非常にかっぷくのよい美人」と言われている。姉妹は二人とも夫より長く生き、サラは1892年4月29日、70歳でなくなった。

 

チャンの妻であるアデレード・イェーツ・ブンカーは1823年11月10日生まれ。"ミセス・チャン"と呼ばれることもある。姉のサラよりも背が高くてほっそりしており「非常に美人」と言われており、姉よりも雅びて高尚なところがあったという。チャンとエンの二人ともサラを好んだと言われている。彼女は1917年5月21日、93歳でなくなった。

 

チャンとエンの最初の子どもは6日差で生まれている。サラは1844年2月10日カテリーナ・マルケルスを出産し、アデレードは2月16日にジョセフィーン・ヴァージニアを出産している。

 

チャンとアデレードは10人の子どもをもう、エンとサラは11人の子どもをもうけた。全体としては12人の娘と9人の息子がいた。子どものうち、2人はろう者で、2人は3歳までに火傷で死去。双子はいなかった。

マウントエアリーに2つ目の家を購入


1845年3月1日、ブンカーはノースカロライナ州サリー郡に650エーカー(260ヘクタール)の土地を購入する。

 

スチャアーツ・クリーク沿いのマウント・エアリーから約5マイル(8km)南にある場所に一時的に住む別荘地を建てた。双子は1840年代と1850年代の間に莫大な富を築き、プランテーションを運営して贅沢な暮らしをしていた。1850年に彼らがノースカロライナ州投資した10,000ドルは、現在は294,160ドルに相当する。

 

マウント・エアリーに別荘を建てた理由は、聖職者から正式な教育を子どもたちに受けさせるためだった。最初は教会に直に通って教育を受けていたが、その後、マウント・エアリーの敷地に校舎を設立して、家庭教師を雇って子どもたちを教育するようになった。

 

家族はマウント・エアリーとトラップヒルの間を行き買いして過ごす時間が多くなった。1847年までにアデレードは4人の子ども、サラは3人の子どもをもうけた。彼らは1853年までトラフィルを住居にしていたが、のちにマウント・エアリーの家のほうに時間をさくことが多くなった。次の10年間の生活で、双子は3日間ごとに住む家を交互に変えた。

 

1850年、18人の奴隷のうち10人は7歳未満で、奴隷の中には他の人に売られたものや、プランテーションで働かされたものにわけられた。

 

ブンカー農園では小麦、ライ麦、とうもろこし、からす麦、ジャガイモを育て、また牛、羊、豚を家畜として飼っていた。ノースカロライナ州のほかの農家と異なり、彼らがタバコを栽培しなかったのは、農園で育てる作物や家畜はおもにブンカー一家や奴隷の自給自足のために育てていたからかもしれない。

 

ブンカーの奴隷に対する扱いは荒々しいものであると報道されることもあったが、双子は誤解のある報道を非難し、妻たちが奴隷を監督しており、また奴隷を教育のために経営をしていたという。

 

ブンカーその地域の貴族の一部だったにもかかわらず、伝統的な貴族の習慣から外れ、自分たちで手作業をすることもよくあった。たとえば、木材を切る際は、彼らは4本の腕で斧を振れたので、他の人より力が強く素早く切ることができた。

 

彼らは娯楽の狩猟、魚釣り、酒飲、そのほかさまざまなスポーツを楽しんだ。

バンカーと妻と18人の子どもと奴隷のグレース・ケイズ
バンカーと妻と18人の子どもと奴隷のグレース・ケイズ

ツアーへ戻る


巡業の退職は、結果的としてブンカーにとって退屈なものであり性にあわなかった。また家計的理由もあり、二人は再び見世物巡業を再開する。彼らは7人もの子どもを養うために生活費をもっと稼ぐ必要があった

 

1849年、娘のキャサリンやジョセフィーンを連れてニューヨークへツアーに出かける。当時娘二人は5歳だったこともあり、短期間の巡業は貧弱な子どもたちの疲れさせるだけとなり、間もなくノースカロライナ州に戻ることになった。

 

1853年、地元での巡業に成功したあと、再び娘二人を連れてニューヨークへ移る。このとき娘たちは10歳ぐらいだった。ブンカーはニューヨーク従業の目的について、子供の教育資金を稼ぐためと公言している。

 

この巡業で双子と子どもたちはいつも座って、聴衆に交じるようにパフォーマンスを行った。聴衆自体が一種の壁となり、高級な舞台上での公演ではなかった。二人はアメリカのスーツを着て、二人の結婚や家族など日常生活に関することを英語でトークしたり、知識や政治的な知識を披露して観衆をひきつけた。

 

1860年10月初頭、彼らは著名な興行師と知られるP・T・バーナムと一ヶ月間の契約を行い、ニューヨークのバーナムのアメリカ博物館に出演した。彼らはジップ・ザ・ピンヘッドとともにエドワード7世など何人かの著名な来客の前でパフォーマンスを行った。1868年、南北戦争後にイギリスへ、30年ぶりにバーナムとともに巡業にも出かけた。

 

ほかの見世物芸人と異なり、これまでのブンカーのキャリアはバーナムがマネジメントして作り上げたものではなく、実質的にはエンターテイメント事業における競合他社と呼ばれる関係であった。双子は自身によるマネジメントによる巡業で世界的に有名になった。

 

彼らは1860年11月12日にニューヨークを発ち、蒸気船でパナマを横断し、12月6日に列車でサンフランシスコに到着した。カリフォルニア州の政治は中国人移民の流入の対処法を思案しているところだった。双子の到着(二人のエンの息子パトリックとモンゴメリー)は注目を浴びた。人種や国籍などさまざまな問題があったが、ブンカーはそのスピーチによっ好意的に受け止められた。

 

新聞紙は「黄色」と彼らを呼ぶだけでなく、「最大の好奇心」や「世界で多くの話題をさらっており、鑑賞する価値がある」と報じた。

「世界的に有名な合衆国のシャム双生児 チャン&エン」1860年
「世界的に有名な合衆国のシャム双生児 チャン&エン」1860年

南北戦争の影響


 アメリカ南北戦争が勃発し、7つの州が米国から離脱したこともあり、南軍のノースカロライナ州二人は1861年2月11日にカリフォルニアを去ることになった。二人は4月中旬までにノースカロライナ州のマウント・エアリーの自宅に戻る。その後、5月20日に州が離脱してノースカロライナで戦争が始まった。

 

南北戦争は、結合双生児はさまざまな風刺や揶揄に使われた。たとえば1860年7月、『Louisville Journal』は、奴隷制問題における民主党内の派閥抗争を表現する際にシャム双生児のイラストを使っている。

 

1865年に南北戦争が終結するころまでに、双子の財務状況はかなり悪くなっており(価値のない南軍の通貨で金を貸していた)、また奴隷を解放することになったので、生計を立てるために彼らは再び巡業を行うことになった。

 

この時期になると北部では双子は、南軍の奴隷制賛成の住民であることもあり、受け入れられなくなっていた。巡業中、二人は自分たちを、州を超えて多くの子どもたちを養うために巡業している哀れな老人として同情して見えるよう演芸活動を行った。二人の子どもの中には南北戦争で負傷した子どももおり、一人は負傷し、一人は北軍の捕虜となった。

晩年


二人は1868年から1869年に、バーナムとともにイギリスを巡業してトークを行った。イギリスに最後に訪問したのは30年も前だった。今回はチャンの娘のナニーとエンの娘のケイトが同行した。今回の巡業では、ノースカロライナ州からボルチモア、ニューヨーク、その後、大西洋をわたってリパブール、スコットランド、最後にマンチェスターへと向かった。

 

1870年にチャンとエンと二人の息子はドイツとロシアへ巡業した。その後、もっとヨーロッパ中を巡業する予定だったが、普仏戦争が勃発したため、戦火を避けてアメリカへ戻ることになった。帰宅する際の船上で、チャンは脳卒中を起こして動けなくなる。エンはチャンを介護するため事実上、巡業を引退することになった。

 

1870年時点のブンカーの全財産は3万ドルである。これは現在の約58万ドルに相当する。

 

双子にあった医師の多くは、分離外科手術をすすめたが、それは命取りとなる行為だった。現代医学文献では2人は当時でも分離可能だったと示している。また、彼らの検死解剖を行ったフィラデルフィア、トーマス・ジェファーソン大学のウィリアム・パンコースト外科医は、「妻と兄弟間の不適切な関係」の可能性を考慮して、2人のうち1人は死ぬかもしれないが、やはり分離手術をすべきだったと強く思ったといい、また分離手術の機会が与えられたら自身が行っただろうと話している。

 

エンは人生の終焉に向かって健康的に生活をできている一方、チャンは1870年の脳卒中で右半分が麻痺状態で、最終的には右足につり包帯をしなければならなくなった。チャンは晩年、重度のアルコール依存に陥り健康状態は悪化していった。

 

チャンは1874年1月に気管支炎を患わった。その後、養生していくらか回復したが、苦しい呼吸状態が続いた。1月17日早朝、エンの息子の一人が寝ている双子を見に行くと、「チャンおじさんは死んでいる」と父エンに伝えた。エンは「じゃあ、私もそろそろだろう」と返したという。

 

医者がすぐにやってきたが、到着時にはエンも亡くなっていた。チャンの死から、わずか2時間後にエンは亡くなったという。

 

2012年時点で、エン&チャンは歴史上最も長生き(62歳)したの結合双生児として記録されている。ほかに長生きした結合シャム双生児では、60歳で亡くなったデイジー&ヴァイオレット・ヒルトン姉妹がいる。

南北戦争後の公演チラシ。北部では以前のような人気はすでになくなっていたという。
南北戦争後の公演チラシ。北部では以前のような人気はすでになくなっていたという。

子孫


今日、チャンとエンの21人の子どもの直系子孫は1500人以上いる。その家族の多くはまだノースカロライナ州西部に住んでいる。子孫たちは1980年代から毎年6月の最後の土曜日に親戚の集会をしているという。

 

チャンの子孫には、アメリカ空軍少将のカレブ・V・ヘインズやその息子で考古学者のバンス・ヘインズ、ひ孫に政治家のアレックス・シンク、ひひ孫にバイオリニストのキャロライン・ショーがいる。

 

エンの子孫には、1940年代にユニオン・パシフィック鉄道の社長となったジョージ・F・アッシュビーがいる。

 

また、バンカーの子孫には11組の双子がいるが結合双生児はいない。


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