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【特別対談】ビートたけしと麻原彰晃(集英社『Bart』1992.6.22号)

瞬間的な判断、生理的な本質「因縁」


-たけしさんの、麻原さんあるいはオウム真理教に対する発言や書かれたものを見ると、何か生理的な好感を持たれているような気がするんです。下世話な比較ですが、例の大川隆法さんよりも、麻原さんのほうに通じ合う部分が多いというか、そんな印象を受けるんです。

 

たけし:そうだね。生理的な好き嫌いというのは、軽くみられがちだけど、じつはかなり本質の部分じゃないかな。瞬間的な判断というか、いちばん最初に出てくるものだからこそ、いちばん当たっているような気がするんですよ。

 

麻原:たとえば結婚なんて、生理的な好き嫌いというかインスピレーションでほとんど決まってしまうわけでしょう。私も、生理的な部分というのは本質だと思います。要するに、頭で考えるよりも深い意識状態での選択ですからね。

 

-生理的にインスピレーションでひかれあうというのは、仏教でいう「因縁」なども関係してくるわけですか?

 

麻原:というより、因縁そのものだと思います。たとえば美女が何人もいて、そのなかから自分の好みの美女を選ぶという場合を考えてください。そういう場合はやはり、自分の過去の経験とか、あるいは「過去世」での自分の経験に基づいて選択しているわけですよ。芸能界を見ても、大変な美人がたくさんいるわけですが、そのなかで人気の出る人もいれば出ない人もいる。山口百恵なんて、決して絶対的な美人じゃないのに、あれほどの人気を得たわけです。過去あるいは過去世において縁があったからこそ、直観的にお互いのことがわかる。そして、ひかれ合うわけです。

ボランティア精神は大事か?現実をじっと観察するか?


-麻原さんは著書の中で「この世の現象はすべて無常を根本としている」と書かれていますよね。宗教というと、愛とかなんとか、ウェットなものを説くというイメージがあるのに、その出発点は「無常」であると。一方、たけしさんのテレビなどの活動にも、人間の知性というのは「人間は根本的に理論や知性では片づけられない」という認識のうえにたつべきだと、という主張があるように思えるんです。そのあたりでも、共鳴する部分があったのではないでしょうか。

 

たけし:うん。以前に変な絵を見たことがあってね。飢えた虎の前に身を投げ出している絵なんですけど、それを見たときに「これだ」という気がしたんです。相手は虎ですからね。食べられちゃうわけですよ。普通は、虎に自分の身を投げ出して食わしてしまうことによって何か評価を得たいと思うわけでしょう?ところが、あの絵はただ、いきなり身を投げ出しているだけなんだよね。その行為に意味をもたせていない。やっぱり、人に奉仕していると思うこと自体、ちょっとインチキ臭いですよ。目の前に飢えた虎がいて、自分の体を投げ出して、ただそれだけというほうが本当のような気がするな

 

麻原:今おっしゃった虎の話は、お釈迦様が仏陀となるために、過去世から連綿と続けてきた修行について記述した『ジャータカ』とよばれる輪廻転生談のひとつです。体を投げ出すことによって称賛を得るよりも、捨てること、体を布施することそのものに意味があるという教えです。これは、仏教の世界で最高の悟りを求める場合に行われることで、たけしさんの言っていることは、まさにそのとおりだと思います。

 

たけし:そこらへんをもっと、麻原さんに聞いてみたかったんですよ。たとえば他人に小遣いをやったり部屋代を払ってやったり、自分の稼いだ金でいろんな人の面倒をみている人がいますよねえ。人の面倒をみてやってるんだという快感。でも、快感なんだから、それを捨てる勇気もあると思うんです。面倒をみてもらってる人は困るだろうけども、その勇気は、そういったものをすっ飛ばすだけの価値があるんじゃないかなと。ボランティアの人なんか、世間から偉いと言われるけど、逆にそれをやらない勇気というのもあるような気がするんですよね。

 

麻原:ふたつの考えがあると思います。ひとつは多くの人の面倒をみ、世話をする。そのことによって神々の世界に入っていこうという考え方。これが仏教の考え方です。もうひとつは、じっと観察する立場。これは、周りの世話をすることによって生じる歓喜とか、欲望とか、そういったものを離れるということです。このふたつの、どちらが偉大かというのは難しい問題です。どこに価値観を置くかということで、愛欲の世界に価値を見出すか、そこから離れたものに価値を見出すかということですから。ただ、最終的に解脱をして自我を超えた存在になるということは、たけしさんの言うように観察する状態に入るわけですから。それを偉大だとしても、それはそれで正しいと思います。

 

たけし:どうしても、快感を得ることが罪のような気がして、だから人に奉仕したり慈善事業なんかで快感を得るよりは、何もしないほうが、まだいい気がするんです。餓死しかけている子どもがいで、その子に手を差し伸べるというのと正面から見据えることを比べると、正視するほうが落ち込むわけですよ。ボランティアの人たちって、ほら、やたら元気で落ち込むのが嫌いな人たちでしょう?ボランティアって、そういう貧しい子どもなんかを見たくないというところからスタートしているような気がするんです。現実を見据える勇気がないというか、ね。

 

麻原:現実を直視するというのは、まさに仏教の考え方ですね。仏典の中にもこういう話がありますよ。お釈迦様の弟子で、たいそう美しい娼婦が死んだとき、お釈迦様はその弟子を連れていき、「ほら、ここにお前の愛した娼婦がいる。これを抱いて、持ってお帰りなさい」と言ったんです。つまり、現実を直視せよと。仏教では、まず肉体の不浄を認識するための瞑想を行います。これはどういう瞑想かというと、現代でいう解剖学と同じです。美しい髪の毛があって、その下には頭皮があって、そこには血管が走っていて、そのさらに下にはむき出しの頭蓋骨がある。それを観想させるんです。それによって、たとえば異性の肉体に対する誤った考え、幻想を遮断するわけです。

 

-たとえば画家が貧しい子どもを目の前にしたときには、その子にパンをあげることと、もうひとつ、その姿を画布に塗り込めるという選択があるわけですよね。

 

たけし:俺も画家だとしたら絵を描くだろうけど、それは、パンをあげるよりもはるかに葛藤するだろうね。心の中でどれだけ戦うかということで、精神的なスタミナが必要になる。でも、そこから逃げると、自分の心はガラガラと負け続けることになるわけで。それで一生懸命あらゆることを考えて、結局、その子を見る、ということになると思うんです。

 

麻原:そういう意味では宗教家は楽ですね。宗教家というのは、パンを与えながら、なぜ今、そういう状況に陥ったかを話してあげればいい。つまり、生き方を変える方向で教えを説きながら、パンを与えればいいわけです。これはまさに、俗に言うところの「カッコいいこと」ですから、すごく楽なんです。

振り子、忍辱の修行


たけし:麻原さんを見ていると、ちょっと失礼な言い方かもしれないけれど、宗教家として大成するとか神になることを考えると、普通の人よりも数倍遠いところから出発している気がするんですよ。もっと言えば、宗教からいちばん遠い人のような気もする。非常に科学的でもあるし。いちばん反宗教的なところから来た人のような。数学でいえば、普通の人が0からはじめるところを、マイナス10からプラス10に向かって突進しているような。でも、その遠いところから努力してきたからこそ、凄い力を使えるような気もするんですよね。努力の過程が我々とは違う気がするんです。

 

-科学的ということで言えば、オウムがやっている水中の修行も、テレビでバカにしたような発言をした人もいますが、科学に則してますよね。酸素が不足すれば脳はフル回転するわけですから。ラッシュしている最中のボクサーも、数学の難問に取り組んでいる高校生も、息を止めているわけですよ。

 

麻原:たしかに、私はもともと反宗教的というか、さまざまな現象に対してその真理を確かめながら生きていくタイプですから。そういう意味ではマイナス10からプラス10に突進しているというのは正しいと思います。でも逆に、マイナス10の苦しみを知っているから、今そこにいる人たちに対して、早くそこから脱してほしいという気持ちになるんだと思います。はじめからプラス8とか9とか、いい状態に馴れていらっしゃる方は、苦しんでいる人のことが理解できないんじゃないでしょうか。私の眼は、3年半ぐらい前から視力を完全に失ったんですが、そのとき、私は大変喜びましたね。肉体の苦しみを経験できているわけだから、それを嬉しいと考えられれば最高じゃないでしょうか。

 

たけし:俺はいつも「振り子、振り子」って言うんですよマイナス10まで振れないヤツはプラス10までいけないと。はじめにマイナス2までしか振れないヤツは、プラスにいっても、やっぱり2までしかいけない。だから、お笑いの仕事がマイナスだとは言わないけども、お笑いで10の仕事ができればシリアスな芝居でも10のことができるんじゃないかと思うんです。だから俺はお笑いをやめない。どうも、片方ばっかりやると振り子みたいな振幅ができない気がしてね。生きているなかでも、昔だったら耐えられないような嫌なことがあっても、今はわりかし耐えられてしまう。「ひでえなあ」と思っても、絶対にその逆もあると思うからです。

 

麻原:仏教の修行のなかにも「忍辱」という段階があります。忍辱というのは、要するに罵倒されるとか、あるいは嘲笑されるような状態のことです。その修業を積んでいけば、最終的には、たとえば自分の肉体を傷つけられたとしても、それに対してまったく心を動揺させることなく、相手に慈愛を持つことができる。たとえば、たけしさんの仕事でも、称賛する人もいれば批判する人もいるでしょう。そういうときに、逆に批判されることに対する訓練をなさることが、仏教でいう忍辱の修行になるんじゃないでしょうか。私なんかも、いろいろなテレビ局から出演の依頼がきますが、なかにはからかい半分のところもあるわけですよ。「あそこはあなたを騙そうとしている」とアドバイスしてくる人もいますが、私は出てみる。すると、画面に登場した瞬間から、徹底的に罵倒されるわけです。私は、それが嬉しい。テレビの画面を通じて日本国民の前で映像として罵倒される。これ以上の仏教的修行はありませんよ。よく、ひどいことを言われているのに麻原彰晃は微笑んでいるという人もいますが、あれは微笑みではなく、歓喜の表情です。

本当の快感「精神のコントロール」


-今、「歓喜」という表現を使われました。歓喜とか快感ということで言えば、オウム真理教はセックスに対して禁欲的なわけですけども、逆に言うと、セックスよりも気持ちいいことを純粋に追求しているんじゃないかと思うんです。

 

麻原:それはそのとおりです。セックスで得る快感というのは、たとえるならば貯金を使っているようなものですから。使えば、どんどん減っていく。ところが逆に、使わないで溜めていくとどうなるかというと、ある段階で、貯金が減らずに、永久運動のように快感・歓喜が体全体を巡りだす状態がきます。そういう意味でも、純粋に歓喜を追求するというのは正しいことだと思いますね。これはインド・ヨーロッパ・グループに属するすべての宗教が追求していることでもあります。

 

たけし:俺もセックスは、しないわけないんで、してるんだけども、セックス以上の快感をもたらす精神状態があるというのはわかる。コリン・ウィルソンなんかを読んでも同じことを言ってますよね。セックスの気持ちよさというのも、しょせん精神で感じるものだから。自分も昔、松竹演芸場なんかで漫才やってて非常にウケたとき、あっ、これはセックスより全然いいと思ったこともありますし、結局、感じるのはすべて精神なんだと思いますよ。だから、本当の快感を得るためには、精神のコントロールが大事になってくると思います。でも性欲というのは強いからね。そうは思いながらも俺なんか、ついフラフラと"おねえちゃん"のところに行っちゃう。

 

-やっぱり人間というのは、表面的には苦しいことをやっているように見えても、無意識のうちに気持ちいいことを選択しているような気がしますね。非常に乱暴な言い方になってしまうけども、戦争に行って死んだ人も、深層意識の部分では、行きたいから行ったという見方もできると思うんですが。

 

たけし:そうだと思いますね。選択の自由というのは、常に危険と背中合わせのものですから。たとえば殺すことと殺さないことを選択するとして、神さまに怒られそうだからといって殺さない方を選ぶのは、神に対して自由ではなくなっているわけでしょう。自由のなかでいきていれば、悪いことからの誘いもあるし、いろいろなことがあるわけですよ。逆に、そういう誘いや迷いがない世界を作ってくださいと神さまにお願いするのは、今度は自分の精神に対して自由ではないわけでね。だから、そういうところで生きていくしかないと思うんですよ。人間は、進化してると言われているけれども、俺は進化なんかしてないと思う。まだまだ自分をコントロールできてないんだもの。自分を自分でコントロールできるようになるというのは、俺にとっては最高の夢なんですよ。自分の病気は自分で治すとか、欲望をコントロールするとか。みんな、それをしないで、むしろ退化した部分もあると思う。それが機械であり、文明ですよ。自分をコントロールする代わりに、コントロールできる自動車やコンピュータを作ってきて、その弊害が今、出ているわけでしょう?地球の環境問題なんか、人間が自分自身をコントロールできれば、すぐに解決できることですよ。

 

麻原:私の経験でこういうことがありました。瞑想の最中に、チベットにいます私の師匠が出てきまして、「ありがとう、ありがとう」と言うんです。これは何かあったなと思いまして、すぐに弟子を連れて日本をたった。チベットに着いてみると、師匠はなくなっていました。ところが、そのころを知らせるための電報は、まだ日本には着いていないはずだと、チベットのお弟子さんたちがビックリしているわけです。つまり、何が言いたいかといと、現代文明はたしかに便利さを提供しているけれども、その反面で、その便利さを提供する機械でなければ人間は何もできないようになってしまった、ということです。人間は元来、機械なんかがなくても幸せになれる資質を持っているのに・・・・・・。

 

たけし:物理の世界では「光がいちばん速い」と言われていますよね。最近は光より速い物質も見つかったんだっけ?でも僕は、人間の意識のほうが速いと思う。だって「ニューヨーク!」と思ったら、その瞬間にニューヨークを意識できるわけですよ。飛行機でいけば10数時間かかるし、光でも0.05秒ぐらいかかる。やっぱり人間の意識が最高だと思うね。

 

麻原:私たちは瞑想によって過去や未来を見るわけですが、これも意識が光より速いからこそ、できることですよ。アインシュタインが相対性理論で説いたとおりです。こんな最高の乗り物を持っているのに、人間はまだ、それに気づかずに一生懸命、罪悪をエンジョイしている。本当にもったいないことです。

1番好きなのは精神世界、お笑いは2番目


たけし:お笑いというのは、俺にとって2番目にやりたかったことだからいちばん好きなのは、やっぱり精神の世界。いろいろ悩んだり考えたりするのが、本当にやりたかったことなんですよ。ただ、よく言うでしょう、成功したければ2番目に好きなことをやれって。俺もお笑いでいちおう成功したわけど、やっぱりチラチラしてくるわけです。本当にやりたかったことがね。大学を中退しようとしたときから人生をかれこれ20年以上も考え続けていますよ。やっぱり人間の精神が考え出すことは、すべて実現する可能性があると思うんです。イメージが貧困な人は、できうることも少ない。自分の発想からいかにかけ離れたことをイメージできるか。それができないと、人間はだめだと思いますね。発想なり考え方を拡げる必要があると思うんですよ。その広げ方を考えるのが、俺にとってはいちばん面白いことなわけで。それは、結局、宗教の世界なんでしょうね。

 

麻原:だから、前からいっていることですが、たけしさんは根本的な部分で仏教観というものを持っていますよ。でも、「俺はどこの宗教団体にも入らないからな。誘うなよ」と釘をさされてますから・・・。

ふたりの禁欲的教訓


-最後に、今は"飽食の時代"とか言われるわけですけれども、そのなかで、おふたりが特に意識して禁欲的にしていることを教えてください。

 

たけし:なるべく食べないようにする、ということかな。昔、浅草にいたころに比べると、今は自分ひとりでは使い切れないほどの金を稼いでいるわけだけど、相変わらず高級なレストランなんかへはひとりではいけない。バチが当たるような気がしてさ。あそこの中華料理がうまいなんで聞くと、行ってみたいんだけど、怖いからとりあえず5人ぐらい連れてってご馳走する。自分で食っちゃいけないような気がするんですよ。

 

-麻原さんは

 

麻原:そうですね、なるべく自分のことを考えないようにする、ということでしょうか。大乗の発想のなかにある「自己を捨て去る」ということができるかどうか。それが私の課題です。