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【世界のシリアルキラー】アナトリー・オノプリエンコ「内なる声に従い52人を殺害したウクライナの野獣」

アナトリー・オノプリエンコ / Anatoly Onoprienko

内なる声に従い52人を殺害したウクライナの野獣


概要


生年月日 1959年7月25日
死没月日 2013年8月27日
活動国 ソビエト、ウクライナ
確定犠牲者 52
活動期間 1982-1996

アナトリー・ユリエヴィチ・オノプリエンコ(1959年7月25日-2013年8月27日)は、ソビエト・ウクライナの連続殺人犯。

 

「ウクライナの野獣」「ターミネーター」「シチズン・オー」という愛称でも知られている。6年間で52人の殺害を告白している。

 

オノプリエンコによれば、自分は親から捨てられたことを恨んでいるという。あるインタビューでは、親に捨てられたことが自分の運命を決定づけたと主張し、また、内なる声によって与えられた命令に従って殺害したという確信犯・ミッション系シリアルキラーである。

 

2013年8月27日に54歳でジトミルの刑務所で心不全で死去。

幼少期


アナトリー・オノプリエンコは、ソビエト連邦のウクライナ・ジトミル州のラスキー村で生まれた。

 

2人の息子の末っ子で、兄のヴァレンティンは13歳年上。彼の父ユーリ・オノプリエンコは第二次世界大戦中、勇敢な戦士として勲章を受けた。アナトリーが4歳のとき母親は亡くなった。その後、祖父母と叔母が世話に世話をされていたが、ヴォリン州のプリヴィトネ村の孤児院に引き渡された。

 

オノプリエンコによると、兄は父親が直接世話していたのに、自分は親から捨てられたことを恨んでいるという。あるインタビューでは、親に捨てられたことが自分の運命を決定づけたと主張し、孤児院で育った人の70%は大人になって刑務所に入ると話している。

犠牲者


最終的に警察に逮捕された時、オノプリエンコは、散弾銃のTOZ-34ショットガン、いくつかの殺人に使用されたものと一致する多数の武器、被害者から取り除かれた多数の物品を含む、合計122点の物品を所持していたことが判明した。拘留中、彼は1989年から1995年の間に8件の殺人を自供した。

 

当初、彼は他の容疑を否定したが、最終的には6年間で52人の犠牲者を殺害したことを自白した。 拘留中、彼は内なる声によって与えられた命令に従って殺害したと主張した。

 

オノプリエンコが自白した殺人事件を年代順に紹介する。

 

1–10. 1989年、強盗中、出くわした家族10人を殺害した。オノプリエンコは、共犯者のセルゲイ・ロゴジン(ジムの常連客)とほかにも数軒の家に強盗に入り、自衛のために携帯していた武器で殺人を行ったことを告白している。また、彼はその後、ロゴジンとの接触を一切断ったと供述している。被害者は大人2人と子供8人。

 

11–15. 同年、11歳の少年を含む5人が車の中で寝ている間に射殺され、遺体が燃やされる前に殺害された。オノプリエンコは、殺人は意図的なものではなく、車上荒らしを計画しただけだったと告白している。

 

16–19. 1995年12月24日、ザイチェンコ一家4人は、ウクライナ中部の村ガルマルニアの自宅で強盗にあった際に、ノコギリやダブルバレルのショットガンで殺害され。遺体はその後に焼却された。

 

20–24. 1996年1月2日、4人家族が射殺された。この殺人事件のあとすぐ、オノプリエンコが目撃した可能性のある通りかかった男を殺害した。

 

25–28. 1996年1月6日、オノプリエンコは、ベルディヤンスク-ドニエプロフスク高速道路で4人の運転手を殺害している。3つの別々の事件で合計4人を殺したと主張している。犠牲者は、海軍将校のカサイ、タクシー運転手のサヴィツキー、コルホーズ料理人のコチェルギナ、そして正体不明の犠牲者だった。

 

29–35. 1996年1月17日、ピラト家の5人家族が自宅で射殺され、家は放火された。その後、27歳の鉄道員コンツェラと56歳の歩行者ザハルコの2人の目撃者が殺害された。

 

36–39. 1996年1月30日、ウクライナのキエフスカ州のファスティフで、マルシーナと彼女の2人の息子、さらにザグラニチニイという32歳の訪問者が全員射殺された。

 

40–43. 1996年2月19日、ドブチャク一家が、ズィトミルスカ州オレフスクの自宅で殺害された。オノプリエンコによれば、父と息子を射殺し、母親をハンマーで殴り殺し、娘に金を要求し、娘が拒否すると娘も殴り殺したという。

 

44–48. 1996年2月27日、ボドナルチュク一家がリヴィヴスカ州マリナの自宅で殺害された。オノプリエンコによれば、両親を射殺した後、7歳と8歳の娘たちを斧で殴り殺したという。その1時間後、オノプリエンコは、ボドナークの敷地内をうろついていた近隣の実業家ツァークを射殺し、その死体を斧で切断したという。

 

49–52. 1996年3月22日、4人家族のノボサド家がオノプリエンコの最後の被害者とされている。家族全員を射殺し、証拠隠滅のために家に火をつけたという。

方法


殺害は決まったパターンに沿って行われた。

 

彼は人里離れた家を選び、騒ぎを起こして一家の注意を引いた。その後、成人男性をまずすべて殺害し、次に配偶者を探して殺害し、最後に子どもたちを殺害した。その後、証拠隠滅のために家を放火し、殺害中に誰か目撃者が家を横切った場合はその人物も殺した。

逮捕


1996年3月、ウクライナ治安部(SBU)と検察庁の専門家は、複数の残忍な殺人事件の容疑者として、26歳のユーリー・モゾラを拘束した。3日間にわたって、6人のSBUのメンバーと1人の検察庁の代表者がモゾラを拷問(火あぶり、電気ショック、殴打)した。

 

モゾラは罪の告白を拒否し、拷問中に死亡した。死の責任を負った7人には実刑判決が下された。

 

17日後、真犯人のアナトリー・オノプリエンコが、最初の殺人から7年後、大規模な捜査の末に発見された。

 

きっかけは、オノプリエンコと同居していた親戚の1人が彼が隠していた武器を発見したことだ。オノプリエンコはすぐに家から追い出され、数日後、警察は通報情報をもとにオノプリエンコを逮捕した。

 

オノプリエンコは死刑を免れ、無期懲役を宣告された。1995年、ウクライナは欧州評議会に加盟していたため、死刑廃止に向けて動きはじめたところだった。


■参考文献

https://en.wikipedia.org/wiki/Anatoly_Onoprienko、2020年6月21日アクセス