新宿
アングラ文化の発信地
概要
関東大震災後、東京の大きな節目のあとに二流の場として「新宿」が盛り場としてぐんと伸びた。新宿の前は神楽坂だった。ただ一流の銀座とは違う街として、神楽坂があったことを意味して、新宿もそのような二流の意味合いでとられていた。
江戸時代までさかのぼると、新宿は「内藤新宿」とよばれ、五街道の1つである甲州街道の出発点だった。新宿から西はもうあきらかな田舎、田園地帯だった。
二流が集う大衆的な盛り場が、神楽坂から新宿に移動していったのが昭和9年(1934年ごろ)になります。この昭和のはじめに、阿佐ヶ谷や荻窪などの中央沿線に井伏鱒二などの文士が、多数移り住んできました。昭和のはじめ、文学青年の間では都心から離れて住むことが流行していており、中央沿線には三流作家が、多数移ってきたのだといいます。
戦後の60年代から70年代は、新宿は「文化の発信地」になりました。歌舞伎町を中心に映画館が建ち並び、1956年には新宿コマ劇場がオープンし大衆の人気を集め、1964年には紀伊國屋ホールが開場し若手演劇人の登竜門となりました。
いま、東京で「アートなが欲しいな」とおもったとき、青山ブックセンターやナディフのような、普通の書店とは性質が違うものを想像しますが、この時代は紀伊国屋書店が、そういう役割をはたしていました。若者が「ある本が欲しい」とおもったところで、地方の書店では手軽に手に入れることができず、とりあえず新宿の紀伊国屋書店にいけば手に入るだろうという雰囲気がありました。
大島渚の「新宿泥棒日記」は1969年の作品ですが、紀伊國屋書店でロケがなされ横尾忠則扮する主人公が万引きをするというシーンから始まりますが、この映画がまさに時代を象徴していると思います。
サロンとなっていたのが風月堂でした。滝口修造、白石かずこ、谷川俊太郎、寺山修司、三国連太郎、岸田今日子、天本英世などが集まったと言われ、ジャズが流れる文化的な雰囲気で、70年前後からアングラ、反戦運動、新左翼の拠点に。一日中コーヒー一杯でたむろできるというのでフーテンの溜まり場となり、ラリって階段を転げ落ちても追い出されなかったと。
そしてこの頃から、アングラ演劇も盛んになり、新宿は独自のサブカルチャーの発信地としての地位を確立し、ジャズ喫茶、歌声喫茶などの喫茶店には多くの若者が交流の場を求めた。
花園神社では唐十郎が赤いテントを建ててアングラ演劇をやっていた。状況劇場ですね。その近くには、新宿ゴールデン街もあるし、自主映画をやっている空間や、小さな劇場もありました。新宿文化シアター。ここではATG(日本アート・シアター・ギルド)の映画をやっていた。ほかの映画会社とは一線を画す非商業的な芸術作品を制作・配給して影響を与えていました。
新宿のピークは1968年の「新宿騒乱事件」です。新宿の東口の前にデモ隊やニューレフト、一般の人が終結した左翼暴動事件です。これを境に、ニューレフトの勢いも落ち始めて、若者の間でだんだんと「左翼」=「ダサい」というイメージが広がっていって新宿から離れていくようになりました。(ノイズ文化論 宮沢章夫)