毎日「艾力·賀佛爾」

エリック・ホッファーの教えを少しずつ紹介していきます。

安定した生活という信仰


彼は季節労働者としての私の生活に強い関心を抱いていた。「知らぬ間に、不自由な一文無しになってしまうぞ。安定した生活なしに、どうやって生きていくんだ」と言った。

 

彼は17歳でサンフランシスコに行き、材木置場で働いていた。ある日、若い現場監督が、材木の種分けをしているやせ衰えた老人に手を貸していた。老人は、突然手を離してしまった。指が動かなくなっていたのだ。現場監督は怒り狂い「このくそ爺! とっとと出ていけ。ここは年寄りなんかの来るところじゃねぇ」と怒鳴り散らした。老人はこわばった自分の指を見つめながら、呆然とたちつくしていた。

 

その事件の日が、彼の材木置場の最後の日となった。彼は金物屋の店員となり、一つの目標をもち、それに向かって猛烈に突き進んでいいく。怒号を浴びせる現場監督の姿が、彼を変えさせた。

 

彼は25歳で店長になり、40歳で大きな金物店の社長になった。かなりの財産を築き上げ、ついに安定した生活を得たと感じられた。

 

ところが57歳のとき、彼は金を力を信じられなくなり、あの怒鳴る現場監督が完全に復活し、恐怖心を抱くようになった。第一次世界大戦後のドイツやヨーロッパ諸国な猛烈なインフレのニュースが、彼をパニックにさせた。緑色のドル札が安全な生活の象徴ではなく、大惨事の予告者になっていた。

 

彼は急いでドイツにわたり、無価値になった通貨がもたらした混乱の影響を見て回った。かつては夢であり無敵の権力であった、白い1000マルク紙幣が紙切れ同然になり、ひとかたまりのパンを買うのに数百万マルク必要だった。

 

貯金や懸命に稼いだ金の価値が失われるのを目にした者は、文明や制度に対する信仰を失ってしまうだろう。彼はひとつの結論にたどりついた。パンと肉を自給できる者だけが安全な生活を得ることができる、と。

 

こうして安全への情熱的な追求が、彼を農夫に変えたのである。

 

私は彼にこういった「あなたは農場が安全な生活を保障してくれると考えています。でも革命が起こったら、農場はなくなりますよ」。

開拓者とは逃亡者である


開拓者とは何者だったのか。家を捨て荒野に向かった者たちとは誰だったのか。人間はめったに居心地のよい場所を離れることはないし、進んで困難を求めることもない。財をなした者は腰を落ち着ける。居場所を変えることは、痛みを伴う困難な行動だ。普通、人が移動しようとするのは移動先に魅力があるのではなく、現状に不満があるからである。現状に満足している人間が離れようと思わない。

 

それでは、歴史上、誰が未開の荒野へ向かったのか。明らかに財をなしていなかった者、つまり破産者や貧民。有能ではあるが、あまりにも衝動的で日常の仕事に耐えきれなかったもの、飲んだくれ、ギャンブラー、女たらしなどの欲望奴隷、逃亡者や元囚人など世間から見放された者。そして、このほかに冒険を求める少数の若者や中年が含まれる。

 

おそらく現在、季節労働者や放浪者に落ちぶれた者と同じタイプの人間が、一昔前は開拓者の大部分を占めていたのだろう。

嘘も殺人も平気になってくる「物売り」


1920年代の終わりになると、仕事はほとんどなくなり、金融恐慌が起こり、工場ではつぎつぎと労働者が解雇されていた。私もまた何か新しいことをせざるをえなかった。毎朝紹介所に来る求人はオレンジ売りだけで、その呼び出しは何年も聞いていたが、やろうと思ったことは一度もなかった。自分が何かを売って歩けるとは思えなかったからである。しかし、いまやそれさえも見過ごすことはできない。

 

「オレンジ売り、一ドルにつき15セント、日払い、昼食つき、雇い主は戸外」。簡単に金になるし、力仕事でもない。雇い主はオレンジでいっぱいになったバケツをわたし、勝手口をノックして回れという。

 

セールスのやり方をおぼえ、主婦たちに歯の浮くようなお世辞を浴びせ始めると、オレンジは次から次へと売れていった。ある家では自分でオレンジを栽培したのかと尋ねられたが、私は農場と家族をでっち上げて、適当な作り話をした。そして、午後早々にオレンジは売り切れた。

 

稼いだ金を数えているうちに、しだいに深い疑念にとらわれ始めた。それはいままで感じたことがなかったもの、恥辱だった。平気で嘘をつき、お世辞をいい、たぶん何でもしたにちがいない自分に愕然とした。明らかに、ものを売ることは私にとって精神を腐敗させる元凶である。おそらく物を売るためには人殺しさえ厭わなかったかもしれない。

子ども部屋から貧民街へ


天涯孤独になっても、将来に対する不安はまったくなかった。ただ、それまで世の中に出たことがなく、金を稼ぐにはどうしたらいいのか、300ドルがなくなったらどうなるのかもわからなかった。

 

お金が尽きてからは、革のジャケットや洋服を売って、その日その日をしのいでいた。そして、ついに売るものがなくなり、飢えという得体のしれないものに直面する。

 

レストランに入り、皿洗いをするから食事をさせてくれと申し出た。飢えはもはや畏れるものではなくなった。レストランでは、年配の店員が食器の洗い方だけではなく、世の中のことをいろいろ教えてくれた。「職を探しているなら、五番通りの端にある貧民街の州立無料職業紹介所に行きな」と彼は言う。

 

私は彼の言葉にしたがった。こうして私は一夜にして子ども部屋から貧民街へ飛び込んだのである。