【文化】アングラ「日本の60年代アンダーグラウンド」

アングラ / underground

実験性・前衛性・アマチュア性


概要


「アングラ」とは、「アンダーグラウンド(underground)」を省略した言葉である。1960年代に日本で流行した実験的前衛的な演劇・映画を呼ぶときに使われる。また、自主制作インディーズアマチュア精神のある作品に対して使われることもある。

 

「アングラ」という言葉は、1960年代に「アングラ・ミュージック」や「アングラ映画」や「アングラ演劇」などという言葉と一緒に出てきた。

 

 

アングラ映画


「アングラ」という言葉を日本で初めて使ったのは、映画評論家の佐藤重臣である。彼は当時にニューヨークで流行っていた前衛映画や実験映画の総称「アンダーグラウンド・シネマ」を約めて「アングラ映画」と呼んだ。

 

日本でこれら実験的な映画を上映していたのは、1967年に新宿に会場した「アンダーグラウンド蠍座」だった。ここで注意したいのは「アンダーグラウンド蠍座」の「アンダーグラウンド」は、実際に劇場が地下にあったため、劇場側が名乗った言葉であること。

 

これに対して「アングラ」「アングラ映画」などの言葉は、佐藤重臣をはじめマスコミが使い出した言葉で、小劇場で上映されていた実験的な作品を表す言葉として使い始めた。

 

 

アングラ演劇


「アングラ演劇」の始まりは、唐十郎率いる『紅テント』が初めて出現した1967年に出自を持つといわれる。寺山修司率いる『天井桟敷』が創設したのもこの年だった。

 

演劇における「アングラ」も映画における「アングラ」と使用方法は同じで、前衛性や実験性を指し示している。また、当時使われた「アングラ演劇」という言葉は、あくまで外から付けられた言葉であり、内容は実験的で前衛的ではあるものの、唐十郎も鈴木忠志も寺山修司も自分たちを「アングラ演劇」と名乗ることはなかった。

 

また「アングラ演劇」は「小劇場演劇」ともよばれていたが、「アングラ」という言葉を使うときは「小劇場」よりも小馬鹿にしているニュアンスがあったといわれる。

 

60年代にはしばしば、唐十郎、鈴木忠志、佐藤信「アングラ御三家」と呼ばれた。また、ある時から寺山修司がこれに加わり「アングラ四天王」と呼ばれるようになった。演劇におけるアングラの終末は、動きが微妙に変質していった1973年と見られている。日本社会は第一次石油ショックに見舞われ、経済成長が止まった年だった。

 

 

アングラ・ミュージック


「アングラ・ミュージック」における「アングラ」は、演劇や映画とは少し意味が異なる。

 

アングラ・ミュージックとは一言でいえば「フォーク」のことで、出自はザ・フォーク・クルセダーズにある。ザ・フォーク・クルセダーズはその内容が思想が社会的に問題視されていた。二曲目の『イムジン河』は北朝鮮系の曲だったため発売禁止となったが、表に出なくても裏、地下でこの曲は爆発的にヒットした。

 

この頃、彼らのレコードを出す会社はなかったので、高石ともやらが自前のレコード会社「URCレコード」を立ち上げる。この「U」とは「アンダーグラウンド」の頭文字である。ここで自主制作・インディーズのことを、徐々に「アンダーグラウンド」と呼ぶようになり始めた。アマチュア意識にもとづいたものであり、プロとは一線を画したそのマイナー性こそが、音楽における「アングラ」だった。

 

参考文献:「証言 日本のアングラ」西堂行人