ブログカテゴリ:見世物芸人



芸人/パフォーマー · 28日 2月 2019
眼力太郎は天保12年(1841年)の夏から、両国広小路で活動していた見世物芸人。天保元年に活動していた目出小僧の花山成勧よりもさらに風変わりの目の持ち主で、押し出した目玉の上にさまざまな物品を糸で吊り下げてみせたという。
芸人/パフォーマー · 28日 2月 2019
天保6年(1835年)7月から、本所中之郷八軒町の石屋週次宅に猩猩二人を泊めて、見世物にしようと芸を教えていると噂がたった。 猩猩は白子、海外ではアルビノ症といわれるもので、生まれつき色素が少ない奇病である。『和漢三才図会』にも、全体が白く、頭髪だけは痰赤色と書かれており、たいして珍しい畸形ではなく、江戸時代でもさまざまな場所で見られた。そのような猩猩でも、特に人気があったのが、兄弟の猩猩である。

芸人/パフォーマー · 28日 2月 2019
熊童子は嘉永時に活動していた多毛症の見世物芸人。嘉永三年(1850年)7月5日に、品川から江戸へ行進するという宣伝をしたので、通行の道筋にはさながら祭礼のような見物客で群がりができた。 熊童子一行の先頭は、丹後国からつきそってきた男10人、その次に母親に手をひかれて熊童子が歩いた。熊童子は5歳の少女で、身体は着衣のため見えないものの手足をはじめ、顔は眉の上からあごの下へかけて、漆黒の毛が渦巻いてふさふさとしていたという。その後ろを興行師3人が、熊童子と書いた大団扇であおぎながら行進した。
芸人/パフォーマー · 27日 2月 2019
目出小僧は文政十二年11月から名古屋大須門外の興行をはじめた見世物芸人。目玉を自由に出し入れする芸で話題を集めた。 目出小僧は芸名・花山成勧と名乗り、少年の扮装をしていたが、実際は20歳以上だったとおもわれる。扇の要で目尻を押すと、目玉がヒョイと飛び出す奇怪きわまる演芸だった。

芸人/パフォーマー · 27日 2月 2019
孫金太郎は嘉永時代にいた全身が蛇のような鱗の奇病を患っていた少年。 金太郎は奥州二本松の薬屋甚兵衛の養女さきの私生児として産まれた。甚兵衛の養女さきは、同国石沢村の酒造家亀三郎方に奉公していたが、同村の百姓平次兵衛と夜中に密会して妊娠したので、養家である甚平衛のもとに帰されることになった。 そこで、養父甚平衛は、平次兵衛のもとへ向かい、さきの妊娠の責任をかけあったが、当時平次兵衛は、隣国の親族方に滞在していたことが判明したのでアリバイがとれ、さきと私通した証拠がとれなかった。
芸人/パフォーマー · 26日 2月 2019
有光伸男(1917〜2005)は「人間ポンプ」芸で知られる見世物芸人。人間ポンプを行う芸人は複数いるが、元祖とされるのが有光である。 「人間ポンプ」とは碁盤を飲み込み色分けして吐き出したり、金魚を飲み込み釣り針で釣って出すなど、飲み込んだものをそのまま、あるいはいささか加工して吐き出す芸のこと。 公演の最後に、バケツ二杯(四、五升ともいう)の水を飲み、台にのぼって水を吹き出し、燃えさかる火を消した芸が「人間ポンプ」の由来となった。

芸人/パフォーマー · 26日 2月 2019
岩本梅吉は文化十二(1815年)年2月から、名古屋大須門前で活動していたこびとの見世物芸人。身長一尺八寸の31歳で、体重は二貫ていど。缶児ではないが足芸を得意としており、両足を両手と同じように自由自在に動かして曲芸を演じた。 江戸で畸形による足芸は、亨保時代の金太夫以来ずっとなかっただけでなく、梅吉の演じる足芸は、金太夫や以前の足芸の比ではない高レベルだっため、多大な人気をよんで、江戸中で評判になり、空前の大当たりだったという。
芸人/パフォーマー · 25日 2月 2019
逆さ首は天保二年(1831年)の夏から、江戸の麻布古川の猿茶屋や銀座三丁目の三川屋という水茶屋で興行をしていた見世物芸人。身体がぐにゃぐにゃになった畸形だった。

芸人/パフォーマー · 25日 2月 2019
鬼娘は安栄7年(1778年)6月から本所回向院で信州善光寺如来開帳のときに、西両国広小路で興行していた見世物芸人。産まれたときから頭に角袋が生えており、口は耳の根まで裂け、二本の牙を持っていたが、産婆に噛み付いたため牙を抜いて口を縫い縮めたという。
芸人/パフォーマー · 25日 2月 2019
花咲男は安永三年(1774年)の4月から、江戸の両国で活動をはじめた見世物芸人。自由自在に屁をかます芸で人気を集めた変わった曲芸師だった。 昔からつたえられて梯子屁(プップップッと連続的に放つおなら)をはじめ、さままざまな曲芸ならぬ曲屁をかまし、それが見世物はじまって以来の珍興行で、評判が高く、日々見物客が押し寄せ、観場周辺は足の踏み場もない状況だったという。

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